親から受けた心の傷から立ち直れない弟
恵美は母親には批判的だが、父親に対しては同じような“被害者”と見ているのか比較的寛容である。しかし、3歳年下の弟はそうではない。それが気にかかることだという。
弟も生後10カ月から叩かれていた。ただ、姉を見て学んだのか、表面的には二世らしくいい子を装っていた。
「弟は本心を顔に出すことなく、悔しくても、悲しくても、楽しくても、『うん』と反応するだけでした。私から見れば明らかにがまんしている表情で、年下の二世によくジュースやオモチャを分け与えたりしていた。母が妥協して、弟は野球チームに参加していましたが、野球の友だちと話しているときとゲームをしているときだけが、弟が唯一表情を見せるときでした。しかし、友だちの親を含め大人を前にすると、とたんに硬くなり殻に閉じこもった」
弟は母親に叩かれると「ありがとうございました」という子だった。ところが、母親がエホバの証人を離れると、母親と話すのを面倒がるようになり、中学2年(取材時、高校1年)になってからはお母さんではなく「おばさん」と呼んだ。父親が赴任先から自宅に戻っているときでも平気で「おばさん」だ。父親がいないときには父親のことも「おじさん」と呼んだ。
弟の目に、両親は「エホバの証人に引きずりこみ、自分を叩き、友だちとも遊ばせてくれなかった母」「その母の暴走を止められず、何も庇ってくれなかった父」と映っているのではないか。それゆえ両親を許すことができない、いや許す許さないという次元を超えて、親から受けた心の傷はすでに凍結してしまい、心の奥深いところでは両親は他人に近い存在になっているのかもしれない。
母が危篤でも、開拓者の叔父は見舞いにすらこなかった
悲惨なのは、両親と弟の関係ばかりではない。
母親の弟(叔父)は大学を中退して正規開拓者となり、その後、長老となった。母が教団を離れると、叔父は祖母とともに恵美の一家との交わりを断った。母親が脳梗塞で倒れ危篤状態になったときでも、2人は見舞いにすらこなかった。贈り物をすると、「背教者との交わりはしません。もう電話もしてこないで」という祖母の手紙とともにそのまま返送されてきた。母がやはり開拓した妹(叔母)の家庭では、子どもを巻き込むことに夫が反対しており、近く離婚することになるかもしれないという。