誰もが救われるのが宗教ではないのかと思われるかもしれません。これには前段があります。それまでのキリスト教の主流派のローマ・カトリックの一番えらい人、教皇(もちろんただの人間です)は、キリスト教が発展するなかで、非常に強大な権力を持つようになっていました。そして教皇、神でもないのに自分の政治上の都合や保身のために、他人の処刑を決めたり、神に代わってさまざまな判断をしたり、私腹をこやしたり、およそ神様に仕つかえるものとしてふさわしくない行動ばかりしていたため、カルバンにはそうしたローマ・カトリックへの激しい怒りがありました。それで、新しいキリスト教の解釈をみんなに示しました。ローマ・カトリックに対してカトリック教会に抗議(プロテスト)しプロテスタントといわれるのはそのためです。
『鬼滅の刃』とプロテスタントの共通点
新しい解釈では、ローマ・カトリックと違って神が決めたことが絶対ということを強く言う必要があったために、最初から成功する人、救済される人とそうでない人が神によって決まっていて、人間が変えることはできず、しかも、自分が死ぬまでわからないという言い方になっているのです。
自分が成功して救済されて天国に行ける人なのかどうかは死ぬまでわからないというところがポイントで、わからないからこそ、自分は成功して救われ、天国に行ける側に選ばれたのだと神を信じ、自分を信じて、死ぬまで一生懸命まじめに働き、善い行いをして、神様に喜ばれるようにしましょうというのが、二重予定説です。
ところで、大ヒットしている漫画、アニメの吾峠呼世晴作の『鬼滅の刃』映画版で、原作にもある、あるセリフが、多くの人に感動を与えているといいます。主人公の上司に当たるとても強い剣士が、小さい頃母親に言われた言葉です。母親は「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか」と問いかけ、「弱き人を助けるためです」「生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者はその力を世のため人のために使わねばなりません」「天から賜りし力で人を傷つけること私腹を肥やすことは許されません」と言うのです。
まさに天から選ばれて、より大きな力を与えられたものはその力を周囲のために使わなければならないという倫理観が説かれています。