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一切見えてこない「菅首相独自のビジョン」

 この前段はまさしく現代の民主主義社会において当たり前の社会保障における政府の立場・役割というものを述べたものに過ぎず、菅首相独自のビジョンというものが一切見えない。どれくらい当たり前かというと、一例を挙げると2006年の厚生労働白書には以下のような記述がある。

「我が国の社会保障は、自助、共助、公助の組み合わせにより形作られている。もとより、人は働いて生活の糧を得、その健康を自ら維持していこうと思うことを出発点とする。このような自助を基本に、これを補完するものとして社会保険制度など生活のリスクを相互に分散する共助があり、その上で自助や共助では対応できない困窮などの状況に対し、所得や生活水準、家庭状況などの受給要件を定めた上で必要な生活保障を行う公助があると位置づけられる」

©JMPA

 これは厚労省の官僚が制度を説明するための原則論を淡々と書いた文章なのだが、このレベルの教科書的な内容を総理大臣が所信表明の締めに持ってくるということは些か驚きを禁じ得ない。

 好意的に解釈すれば菅首相はおそらく、現代の政治家が個人的に国家のあり方について特別なビジョンを持ち国民に押し付けることは適切でないと考えており、自由主義国家、民主主義国家の首相のあり方として「国民一人一人が独自のビジョンを持って取り組むことを政府はできる範囲で支える」という姿勢を示すことが重要であると考えているのだろうと思う。それはいわゆる公務員、英語でいうところの「Civil Servant(市民の使用人)」としての意識で、後段における「国民のために働く内閣」という言葉がその意識を如実に示しているように思う。菅首相としては、

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(1)公務員は国民の上に立つものではなく、国民に仕えるものだ

 

(2)だから国民に指示するのではなく、国民の自主的な取り組みを支える環境を作るのが現代の政府、政治の役割だ

 

(3)自分は政治家としてこうした認識に基づき「信頼できる政府」を作るため、行政の縦割り、既得権益、そして、悪しき前例主義を打破し、規制改革を進めていく

 というような論理を頭の中に持っているのだろう。こうした受け身の意識は一人の「一般公務員」としてあるべき職業倫理であるように思う。過去には「国のために働き、民を導く」とする佐橋滋のような国士型の官僚像が重宝された時代があったが、21世紀に入ってそのような官僚像は否定された。官房長官のような首相の「黒子」として官僚を束ねる立場でも同じことが言えるかもしれない。