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ユリ・ゲラーとの食事

 中江の手配でユリ・ゲラーが来日した際には、笹川会長の希望で、ユリを連れて一緒に食事をすることになった。場所は、船舶振興会のレストランにあった会長専用の特別室。笹川会長はユリに、「沈没船ナヒモフ号のことだが、あの船の金塊はどこにあるのか」などと聞いていたそうだ。

 食事の最中、ユリがいきなり太いナイフをつかんで笹川会長の目の前に突き出した。するとナイフをこすりもしていないのに、柄の根元からポキンと折れてしまった。あたかもハンダが溶け落ちるかのようだったという。

「刃が落ちた時の、笹川会長の顔が一瞬固まって、いったい何が起きたんだ? という驚きの表情が忘れられないよ。ユリに『何で折れたんだ?』と聞くと、『分子が離れて違う世界に飛んでいったから』だってさ。何を言っているのか理解できなかったね。『スプーンだけでなく、テレビでも今のナイフを折るのをやればいいじゃないか』というと、『テレビでは精神が集中できないからダメだ』と言ってたね」

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 中江の名が政財界に広く知られるきっかけは、やがては“オヤジ”と呼ぶまでに慕ったテレビ朝日専務の三浦甲子二(きねじ)の存在だった。三浦を介して毎晩のように政財界人の会合に呼び出され、名が知られるようになっていく。先述のように、最初こそ「農協遊びの若造」と怒鳴られたが、互いにさっぱりした性格でよく気が合ったという。

三浦甲子二氏 ©文藝春秋

 中江がいつものように「川崎」で自分の客を接待している。そこへ三浦から「すぐ来い」と呼び出しがかかり、指示された店に行くと、たいてい政治家や官僚、財界人らの会合が終わった直後で、その場で中江を紹介してくれたという。

「オヤジには毎日のように色々な会合に呼んでもらったな。田中先生のいる会合の時もあったし、当時の政党幹部のほとんどと顔を合わせているはず。それまで自民党の副幹事長という人が何人もいるとは知らなかったよ」

 ある時呼び出された席に、交友関係の広さで「財界幹事長」と呼ばれた今里広記・経済同友会終身幹事がいた。ヨレヨレの背広に長髪、髭面は中江のトレードマークみたいなものだったが、今里には「髭を剃れ、髭を生やしているやつは信用できない、詐欺師だと角栄が言っているぞ」と言われたこともあった。

 1982(昭和57)年、鈴木善幸の突然の退陣を受けて、中曽根が総理の座に就く。「直角内閣」「田中曽根内閣」と揶揄された田中の影響力が強い政権に追い討ちをかけるように83年10月、田中に実刑判決が下された。判決直後の12月の総選挙で自民党は敗北を喫し、中曽根は新自由クラブとの連立でかろうじて政権を維持したが、84年10月の総裁任期満了に伴う中曽根再選をめぐって、田中派と反田中派の駆け引きが活発化していった。