2020年2月20日、稀代の相場師として知られる中江滋樹氏の自宅が火事になり、焼け跡から本人の遺体が発見された。小学生で株取引を始め、20代の頃には証券会社や銀行が密集する兜町の風雲児と呼ばれ、投資ジャーナルを大企業に発展させ、そして詐欺容疑で逮捕されて表舞台から姿を消した男……。そんな彼の生涯はいったいどんなものだったのだろうか。

 ここではジャーナリストの比嘉満広氏の著書『兜町の風雲児 中江滋樹 最後の告白』(新潮新書)を引用。中江氏が経営していた投資ジャーナルの経営実態、そして関係を噂されたアイドルとのエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

独特の経営スタイル「柱制度」

 東京に進出した当時(1978年)の投資ジャーナルは、社員わずか20人程度でスタートした。その後は相場の成功とともに年々社員数が増え続け、やがて3000人にまで膨らんでいく。中江一人では組織の隅々まで目が行き届かなくなる一方で、社員の掌握には中江なりの独特な人心収攬術があった。

 その一つが「柱制度」である。京セラの稲盛和夫が編み出した経営手法「アメーバ経営」からヒントを得たものだ。アメーバ経営とは、会社の採算部門を6~7人の小さな集団組織に細分化し、独立採算で運営する経営戦略である。

 中江は会社組織を「柱制度」と名付けた。当然ながら大黒柱は中江自身で、その周りに一定の条件を満たし「柱」と認定した社員50人を置く。「柱」にはそれぞれノルマを与え、それを達成してくれることで会社経営が成り立つというシステムである。

©iStock.com

「一般企業では取締役にあたるけど、その役職名だといかにもサラリーマン重役で組織の歯車の一つみたいで、強い責任感は持てないと思った。そこで個々の幹部に責任感を自覚させるために『柱』という表現にしたわけ」

「柱」の決め方は、「投資ジャーナル」スタート時からずっと一緒にいる仲間20人をまず認定する。その「柱」に何カ月かに一度、「柱」となれる部下を推薦させる。推薦の部下を出すとその幹部のノルマは減らす。しかし、その推薦された新しい「柱」がノルマを達成できないと、その推薦した「柱」の責任になって逆にノルマが増える。

基本給は月給100万円から

 中江はこのやり方を人事マルチと名付けていた。ノルマは月々で変わるが、基本ノルマは3000万円程度。「柱」にした50人の幹部には、人事権まで含めて全ての権利を与えて売り上げを競わせる。

 月々3000万円の基本ノルマを達成するため求人募集をして部下を100人単位で採用し所帯を大きくする幹部もいれば、5~6人しか部下を持たない幹部もいた。それぞれの「柱」が独立採算制で、雇った部下らの給料もその「柱」の判断で決めていたという。つまり、「投資ジャーナル」の中に50人の幹部を中心とした50の準会社組織が存在していたということだ。

「僕にとっては『柱』に認定した50人だけが社員であり、彼らの給料は僕が決めていた。最初は基本給100万円から始まり、ノルマを達成すると毎月10万円増え、頑張って毎月ノルマを達成すれば、1年で基本給220万円になる。夢があるよね」

「投資ジャーナル」の主要な部門は営業部と株式部だった。営業部は新規の客を獲得し、その客を株式部が引き継いでフォローして投資に結びつけて、手数料を得る。50人の「柱」は両部門から半々で構成されていた。