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相場師としての信念

「残念ながら行く機会はなかったけど、今思うと、藤田社長の教えを生かせなかったから、その後マスコミの袋叩きに遭ってしまったんだよね」

 もっとも相手の地位がどうあれ、中江には相場師として信念のようなものがあった。一度、藤田から「投資ジャーナル」で10億円くらい株投資をしてみようか、と言われたが、きっぱり断ったというのだ。

©iStock.com

「僕は、実業家に株投資を教えるのはダメだという信念がある。実業家が株で儲けることを覚えてしまうと、儲けを手に入れるなら株のほうが早いと知ってしまうのね。実業家というのは日々の1円、2円の積み重ねで儲けているわけで、株で何百億も入ってきたりすると勘違いする。株に関心が向いて、本来の1円、2円の心が消えていってしまう。だから実業家に株投資を教えてはいけない。たとえ藤田社長であっても10億円は断り、株も勧めなかった」

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政界とのつながりも

 奄美出身で、医療界の改革を唱え、その後は政治家となった徳田虎雄とも親交があったという。今では国内最大の民間医療グループ・徳洲会を創り上げた立志伝中の人物で、政界スポンサーとして特異な活躍をしたことでも知られる。

 1983(昭和58)年暮れに行われた衆院選で奄美群島区に初出馬した徳田は、現職の保岡興治(自民)との間で熾烈な選挙戦を展開、約1000票という僅差で徳田が落選する。島中に現金が飛び交う激しい金権選挙は、「保徳選挙」として語り草になった。

徳田虎雄氏(左) ©文藝春秋

「徳田さんは『川崎』で会った後も話し足らないのか、僕と一緒に宗千代のマンションに毎日のようにやってきては、初めて選挙に出て、徳之島を真っ二つにして大喧嘩をやらかした末に負けた。その悔しさを繰り返し愚痴ってたね。小さな島なんだから、そんなに喧嘩しないで仲良くやればいいじゃないって慰めていた。株についての相談事も多かったけど、個人的に株を勧める気はなかったから、適当に相槌を打ってごまかしていたけどね」

 戦後政財界の黒幕、フィクサーなどと呼ばれる一方、社会奉仕活動にも熱心だった日本船舶振興会の笹川良一会長とも意外な交流があった。

「僕からアプローチしたわけじゃなかったけど、笹川会長から会いたいと言われたのが最初。それからは、ちょっと来てくれ、と呼び出されると船舶振興会のビルにある会長室を訪ねるの。でも特に話があるわけでもなくて、いつもとりとめのない雑談をするだけなんだ。相場のことで忙しいのに、いいから遊びに来い、と週に二度も三度も呼び出されたな」