2021年3月8日、延期に延期を重ねた映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」がついに公開となった。初日から2週間の興行収入は50億円に迫り、観客動員数も322万を突破。これについて文春オンラインという一般メディアが音楽家である自分に原稿を依頼してくることからも作品が社会現象となっている事実が窺える。

 だが25年の長きにわたって生き続けたエヴァとその完結について何かを書くのは非常に難しい。すでに公開当日からネットでは数々の考察が飛び交っているし、「私とエヴァンゲリオン」とも言うべきその人自身の人生と作品を照らし合わせた文章も数多く公開されている。

 まずは無難に作品を振り返ってみようと思う。

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2015年、東名高速下り線足柄サービスエリアに登場した「初号機」 ©時事通信社

次回予告が絵コンテ状態…物議を醸したTV版

 最初にエヴァが大きく物議を醸したのは1995年10月から翌年3月にかけて放送されたTV版の終盤における展開だった。次回予告から徐々に動きが削られていき、ついに絵コンテ状態となり、本編ではまるで作品そのものを放棄するかのように主人公の内面が描かれ続ける衝撃のラスト。

 なかなかソフト化されなかった本作は(結局最初の劇場版公開時にも全話出揃わなかったのは今の常識から考えると異常事態とも思える)翌年夏の深夜の再放送などであらためてブームに火がつく。

 そして1997年の旧劇場版「Air/まごころを、君に」で一応の完結を迎えたが、実際のエヴァファンの観劇シーンを実写カットとして挟み込むなど、現実への回帰を促すような内容が賛否両論を生んだ。ミサトを含む3人のヒロインが描かれた真っ赤なポスターに刻まれたキャッチコピーの「だから みんな、死んでしまえばいいのに…」が非常に印象深い。

 世紀末を前にどこか浮ついていたあの時代、オゾン層の破壊や大気汚染、温暖化といった地球単位の環境問題意識の高まりによる「人間は害悪な存在である」というイメージや、厭世ムードなどもあり、エヴァの中で描かれる地球規模の「クライシス」に自らの破壊願望を重ねた人は多かったのではないか。「破壊」は言葉として強すぎるとしても、世界に対する淡いリセット願望のようなものが少なくとも僕自身の中にはあった。

 阪神淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件などを経ても、なお壮大な死や世界の崩壊をテーマにした作品が目立ったのは、それらの事件の衝撃波は浴びつつも、そこで起きた個人個人の死を映し出す術がまだマスメディアに限られ、解像度も低い世の中だったということかもしれない。