馴染み深いものからそうでないものまで、世界には多種多様な生きものが生息している。「ダーウィンが来た!」「NHKスペシャル」などを手がけてきた、NHKの自然番組名物ディレクターの岡部聡氏は、そうした生きものを数多く目の当たりにしてきた人物の一人だ。

 同氏が世界中で撮影してきた、驚きの生態を持つ生きものについてまとめた著書が『誰かに話したくなる摩訶不思議な生きものたち』(文藝春秋)だ。めったに本の推薦文の依頼を受けないアーティストの福山雅治さんも、本書の帯に「地球のための本」というコメントを寄せている。同書より、「最も恐ろしい生きもの」だったと語る“トラ”との遭遇の瞬間を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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トラに襲われた老人

 住んでいる場所のすぐ隣にトラがいるのは、どういう感覚なのだろうか?

 実際、僕たちの滞在中も、森に薪を取りに入った村人が、トラに襲われたというので話を聞きに行った。襲われたのは老人で、幸い命に別状はなかったが、太ももの裏を大きく切り裂かれていた。シータ(編集部注:岡部氏が追っていたトラ)とは別の子もちのトラと鉢合わせをして、母親と子どもの間に入ってしまったらしい。

 長年、森に入っているが、トラに襲われたのは初めてで、ものすごく恐ろしかったが、こんなことは滅多にないので、これからも森に入る、と言っていた。

 森に入ることにはリスクがある。しかし、村人たちは経験から、どんな場所にトラが潜んでいるかは知っているし、トラは警戒心が非常に強く、人間が近づくと数百メートル離れていてもわかるので、普通は自分から逃げていくという。

写真はイメージ ©iStock.com

 僕たちが滞在していた村でも住民に話を聞いた。トラは夜、村に来て家畜を襲ったりはするけれど、人が襲われたことはない。我々はハチミツや薪を取りに森に入るが、トラはそんなに怖くない。むしろ、見境なしに人間に向かってくるナマケグマのほうがよほど恐しい、ということだった。

撃退法は人間の顔のお面

 そんなインドでも、過去には人喰いトラが何度も報告されている。最も被害が多かったのは、20世紀はじめに、ネパールとインドの国境付近で436人を殺害したとされるメスのトラだ。1907年に射殺されたこのトラには、上下4本あるはずの犬歯がほとんどなかったという。

 トラの犬歯は、長さが5センチを超える。ネコ科の狩りは、襲いかかるときに獲物に爪を突き立て、体重をかけて引き倒し、巨大な犬歯を獲物の急所に食い込ませてとどめを刺す。その犬歯がなければ、引き倒すことはできても、全身が筋肉の塊のような野生のウシやシカに暴れて抵抗されたら、逃げられてしまうだろう。

 このように、牙を失ったり、怪我をしたり、年老いたりして、自分の力で野生動物を捕りにくくなったトラが、人間を襲うようになると考えられているのだ。一度、人間の味を覚えてしまえば、これほど無防備で狩りやすい獲物はほかにいないだろう。人間がトラから身を守るためには、どうしたらいいのだろうか?