3月は赤木雅子さんにとって特別な月だ。なぜなら自身と、夫の赤木俊夫さんの誕生月だから。雅子さんが22日、俊夫さんが28日。日にちが近いからいつも一緒にお誕生会を開いた。仲良しの甥っ子たちが岡山の実家でバースデーケーキを贈ってくれたこともある。「としおじちゃん まあちゃん おたんじょうび おめでとう」と書いたプレートをのせて。写真の俊夫さんは満面に笑みを浮かべている。いつもよく笑う人だったという。

誕生ケーキを前にした元気な頃の俊夫さん(赤木雅子さん提供)

 それを一変させたのが財務省の森友公文書改ざん事件だ。俊夫さんは勤め先の近畿財務局で改ざんという不正行為をさせられた。それを苦にうつ病になり、組織に見放されたと感じて自宅で命を絶った。それが2018年の3月7日だ。

「幸せな月」が一転して「悲しみの月」に

 死の間際、俊夫さんは改ざんを告発する「手記」を残した。そこには「抵抗したとはいえ関わった者としての責任をどう取るか、ずっと考えてきました」という言葉とともに「55才の春を迎えることができない儚さと怖さ」という一文がある。あと3週間で誕生日だった。

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 こうして「幸せな月」が一転して「悲しみの月」になってしまったが、それから3年。赤木雅子さんは自らの力で再び大切な月を取り戻した。それはどのように成し遂げられたのか? 節目となったのは1年前の俊夫さんの手記全文公開と国などの提訴。そして今年の3・11、東日本大震災10年に思い立った被災地訪問だ。赤木雅子さんの3月物語。まずは本人に語ってもらおう。

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あの時、私は色を失ってモノクロの世界にいた

 とっちゃん(夫の俊夫さん)が亡くなった3年前の3月7日、私は不思議なほど泣かなかった。でも翌日、葬儀場で寝かされている姿を見たら涙があふれ出た。「助けられなくてごめんよ」そして「何で死んだの」という思いがわき上がり、一晩中とっちゃんの横で号泣した。葬儀が終わり実家に帰っても狂ったように泣き続けて、あの頃、琵琶湖の半分くらい涙を流したと思う。

 その月の28日、岡山の実家でとっちゃんのためにバースデーケーキを買ってくれて、みんなでお誕生会をした。甥っ子たちの前では泣かないようにしたけど、それまでで一番寂しい誕生日だった。あの頃、満開になった公園の桜が真っ白に見えた。えっ、とびっくりして周りを見たら、公園ではしゃいでいる子どもたちもみんな真っ白。あの時、私は色を失ってモノクロの世界にいた。

今年3月26日に撮影した神戸市内の公園の桜。この桜が俊夫さんの死後はモノクロに見えた(赤木雅子さん提供)

 でも去年、私はとっちゃんの手記を思い切って公開した。同時に事件の真相を知るため裁判を起こした。国と佐川さん(改ざんを指示したとされる佐川宣寿元財務省理財局長)を相手に。これを3月にしたのは、私ととっちゃんの誕生日がある大切な月だから。