「地震が起きた時間は閖上に」雅子さんの考えを変えた木村さんの話
その夜は宮城県石巻市の牡鹿半島にある「割烹民宿めぐろ」に泊まった。ここもちょんまげ隊長の案内だ。隊長は語る。
「震災ではここも被害が大きかったし、今はコロナの影響でお客さんが落ち込んでいるんですよ。先日の地震でまたガラスが割れたり被害を受けましたからね。ぜひ宿泊して応援してあげたいと」
その「めぐろ」にちょんまげ隊長はある人を招いていた。木村美輝さん(51)。地元で漁師として暮らしてきたが、震災の津波で自宅も船も、そして何より大切な妻と高校生だった息子を亡くした。木村さんは津波で流された街中で家族を探し歩き、やっとマイカーを見つけたという。その時のこと。
「車の中に息子がいてね。でも、運んでいく手段がないんですよ。泥だらけになっているけど、顔を洗ってやる水もないから、近くにあった一升瓶の酒で洗ってやりました。口を開けたら中に泥がびっしり詰まっていて、それを指でかき出してやりました」
顔色を変えずに淡々と話すその様子に、雅子さんは逆に迫力を感じたという。
「息子さんの口の中から泥をかき出すって、壮絶なことですよね。どんな思いをしてきたんでしょうね」
話を聞いて深く感じるところがあったようだ。翌日は震災10年となる3月11日。当初はもう閖上に戻るつもりはなかった。だが一晩熟考して雅子さんは考えを変えた。
「やはり地震が起きた時間は閖上にいたいです。丹野さんにもう一度お会いしたいし、鳩ふうせんも自分であげたい」
鳩ふうせんに書き加えたメッセージ
そこで急きょ予定を変更。僕ら4人はレンタカーを南へ、閖上へと走らせた。思いがけぬ再びの来訪に丹野さんも喜んでくれた。すでに報道各社もカメラを並べてその時を待ち受けている。丹野さんはいたずらっぽく笑いながら雅子さんに告げた。
「マスコミがこんなにたくさん来てるけど、気にしないで」
そう、報じてもらうことも忘れられないために必要なのだ。3月11日午後2時46分、巨大地震発生の時刻。時報とともに集まった人たちが黙祷を捧げた。そして亡くした人への思いを込めた鳩ふうせんをみんなが一斉に空に放った。
雅子さんは閖上に戻ってきた後、鳩ふうせんの反対側にメッセージを書き加えた。
『としくんへ「これからも一緒に生きていこう」雅子』
文字に書くときはとしくん。話すときはとっちゃん。とっちゃんへのメッセージを託した鳩ふうせんが閖上の空に消えていった。じっと見つめている雅子さんの目が潤んできて、ハンカチを取り出し目に当てた。そこをすかさずスマホで撮ろうとしたが、あわてておろされてしまった。でも久保田くんと誠二郎くんが全部カメラで撮っている。
最後は赤木雅子さん自身の言葉で締めくくりたい。