日本が戦争に負け、7年近くもアメリカなどに占領されたことを覚えている人も少なくなった。
私にも、実際の記憶なのか、誰かから聞いた話を自分の記憶と思い込んだのか分からない思い出がある。生まれ育った関東の中都市の家の近くに国道の陸橋があり、ガード下に、戦災で焼け出された何組かの家族がバラックに住んでいた。
ある日、通りかかると、進駐軍(占領軍のことをそう呼んでいた)のジープが止まっていて、若いGI(アメリカ兵)が、周りを取り囲んだガード下の子どもたちにチョコレートを分け与えていた。手を出しながら「マネー、マネー」と叫ぶ子どもたち。それを、自分も同じようにしたい気持ちを、「そんな恥ずかしいことはしない」というプライドが抑え込むのを感じながら、離れてじっと見ていた――。
占領の時代は、さまざまな不合理、不自由以上に、精神的な抑圧とコンプレックスが大きかったように思う。だからこそ、日本人にとって独立の解放感は大きかった。
今回の出来事は、その独立直前に起きた乗員・乗客37人死亡という、当時日本最悪の航空事故。「全員救出」が伝えられ、その後、一転「全員死亡」に。情報の混乱の中でメディア史に残る「虚報」も生まれた。原因究明も十分にされないまま、占領の終結・独立の喧騒の中で、あっという間に忘れ去られた。
事実関係を追っていくと、そこには占領という厳しい現実の下、アメリカの厚いカベと、それに従属し、依存する日本という図式が見えてくる。そして、それは70年近くたったいまも根本的には変わっていないように思える。
「全員救助さる」
1952年4月9日朝、東京・羽田空港を離陸した日本航空(日航)機が消息を断った。午後早く印刷されたと思われる毎日の号外を見てみる。
日航機もく星号遭難か 乗客卅(三十)三名 大島上空で消息絶つ
日本航空福岡行き定期第1便、マーチン300型(202型の誤り)「もく星号」は9日午前7時33分(34分の誤り)、乗員4名のほか、八幡製鉄(現日本製鉄)社長・三鬼隆氏、(漫談家)大辻司郎氏ら旅客33名を乗せて羽田空港を出発。同59分、大島通過の報があったまま消息を絶った。同機は予備無線もあり、12時25分までの燃料しか積載しておらず、(午後)0時半現在に至るも同機から連絡がないので、遭難したのではないかと憂慮されている。同機は(午前)9時30分、大阪着。同11時、福岡着の予定のもの。
記事には乗客、乗員の名簿も付いている。敗戦後、日本の占領統治に当たった連合国軍総司令部(GHQ)は日本側の自主的な航空運輸を認めず、日航は営業のみで、運航はアメリカのノースウエスト航空(現デルタ航空)が担当していた。機長、副機長とも同航空経由で派遣されたアメリカ人。航空運賃が高価だったため、乗客には会社社長や役員、ホテル支配人、労組幹部らが目立つ。