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1951年10月25日、国内線定期航空再開に出発する「もく星号」(「日本航空10年の歩み」より))

「虚報『乗客全員救助さる』」は最後に「虚報、誤報乱れ飛ぶ中で、たった一つの真実を守り抜いて、それに飛びつかなかったとすれば、これもまた一種の特ダネといって恥ずかしくないものであろう」と自賛のようなことを書いている。

 だが、「共同通信社50年史」(1996年)によると、事情はちょっと異なる。

 共同はこの事故で誤報を犯さず、正確な報道が貫徹できたとされた。

 ところが、荒尾(達雄氏=事故当時、社会部デスク、のち社会部長)は(19)65年6月、共同社史刊行委員会に、もく星号事故の出稿について次のようなメモを寄せた。「(舞阪沖不時着の原稿を前にして)『なぜ出さないのだ。出せ』とせっついたのは、高田秀二社会部長と加盟社東京支社の人たちだった。私は『確認がとれるまで出せない』と頑張り、対立が続いた。最後に私は『そんなに出したければ、部長の責任で出すがよい』と突っぱねた。高田部長は午後2時前後に、自分で見出しを付けて流した」「当時、午後2時前後は夕刊締め切り後で、幸運にも(?)記事は加盟紙に載らなかった」。荒尾の記述通りとすれば、共同も他社と同様、誤報を犯したことになる。

天候無視して離陸? 

 翌10日付朝刊。新聞は「もく星号全員殆(ほとん)ど絶望 海空の捜索空し」(毎日)、「遭難日航機の捜索續(つづ)く 全員いまや絶望」(読売)などと1面トップで伝えた。再び朝日を見よう。

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「全員絶望」の紙面(読売新聞)

 遭難の日航機 全員の生存絶望視 機體(体)なお發(発)見せず 再出発の捜査網

 昨9日朝、羽田空港を出発後、間もなく消息を絶った日航定期旅客機「もく星号」は10日午前1時現在、なお機体の一部だに発見されず、乗り組み37名の生存は絶望視されるに至った。「もく星号」の行方不明が重大段階に達した9日正午ごろから、航空庁、海上保安庁、国警では米軍の協力で東海道沿岸海上に万全の捜査網を張り、午後2時ごろ、静岡県舞阪沖に“浮流する遭難機体発見”の情報をキャッチしたのに次いで、“米海軍掃海艇「ヘロン」「ファイアクレスト」の2隻が全員を救助した”=一部既報=旨の情報をキャッチした。だが、日航本社に詰め掛けた家族たちの一喜一憂のうちに、夜に入ってから、これらの情報は全て覆り、ことに、一時連絡不能だった前記2掃海艇が米軍当局へ「1名の救助者も乗せていない」旨の報告を寄せるに及んで状況は百八十度展開。捜索は全面的に再出発することになった。

 9日夜、海上保安庁の巡視艇は総出動で東京湾口を中心に機影を求め続け、極東海軍も夜通し捜査を続けた。10日早朝からは空海から本格的な大捜索が行われるが、「もく星号」遭難は既に悲劇的な色彩を深めつつある。

 3紙とも乗員、乗客の顔写真を載せたほか、社会面も合わせて、「家族たち『日航』を怒る “悪気流になぜ飛んだ” 藤山会長も黙して答えず」(毎日)、「“絶望”の報にたゞ(だ)涙 三鬼氏邸」(読売)、「悲痛な遭難機の家族たち “もうだめだねェ……”」(朝日)などの雑観記事も。弔慰金の額が報道されるなど、「全員救助」報道の反動もあってか、「全員死亡」を先取りしたような紙面に。

 毎日の見出しの「悪気流」について、読売にこんな記述がある。「中央気象台の話によると、この日の東海道一帯は、春として相当強力な1000ミリバールの低気圧が潮岬から東海道岸に沿って北上中で、9日正午には駿河湾に達し、伊豆半島から大島にかけて海、陸上とも地表から(上空)5、6000メートルの高度まで雨雲が垂れ込め、視界はゼロに近く、気流も極めて悪かった。『もく星号』はこの低気圧の進路に飛び込んだわけで……」。