昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

2021/04/11

「日航機(もく星号)遭難か 大島上空で消息絶つ」の見出し。本文も「同(午前7時)59分ごろ、(伊豆)大島上空で無線連絡を絶ち、行方不明となった旨、正午、大島地区署から国警本部へ連絡があった。同機は予備無線も持っているので、遭難したのではないかとみられている」とし、「発見・救出」情報は載せていない。松尾静磨・日航専務(のち社長)の「これまでも時々あったことだが、飛行機の無線が故障しているのではないかと思う。悪くすれば、どこかへ不時着し、連絡がとれずにいるのかもしれない」という談話もある。

 こう見ただけで、情報が錯綜し混乱していることが分かる。情報源も、当時は運輸省の外局だった航空庁(現国土交通省航空局など)板付分室、国警静岡県本部、航空庁名古屋航空保安事務所、第4管区海上保安本部(名古屋)などだが、国警静岡県本部の情報の1つは「米軍からの情報」であり、名古屋航空保安事務所も元は「横田の米空軍基地からの通信」。第4管区海上保安本部にしても、どこから「無電」が入ったのか。情報源が一本化されていないうえ、元々は米軍から出た情報が多いのは一目瞭然。

「もく星号」の航空路(「科学朝日」1952年6月号」より)

締め切り間際に響いたアナウンサーの声「乗客は全員救助されました」

 それにしても、朝日、読売と毎日の違いはどうして生まれたのだろう。高田秀二「物語特ダネ百年史」の中の「虚報『乗客全員救助さる』」を読むと、おおよその事情がつかめる。高田氏は共同通信で私の大先輩。事故当時は社会部長で、その後、編集局長などを務めた。私も帝銀事件取材で話を聞いたことがある。当該部分を要約してみる。

「日航機が行方不明になった」との情報が、共同通信の名古屋支社から東京本社の社会部デスクに飛び込んだのは、昭和27年4月9日のお昼少し前だった。知らせてくれたのは、ちょうど出張中で、東京へ帰る定期便に乗ろうとして名古屋の小牧空港にいた社員だった。

 運輸省、日航、米空軍、警視庁、各支局などから絶えず情報が入るのだが、1時間、2時間たっても、もく星号の消息は全然分からない。そのうち、名古屋の(米軍)小牧空軍基地に派遣した支社の記者から「米軍捜索機が浜松沖合で、飛行機の尾翼らしいものが海中から突き出ているのを発見した」という情報が飛び込んできた。

 この情報に追っかけて、その尾翼らしいものの付近の海面を、米海軍の掃海艇が2隻航行していたとも言ってきた。

 そんな中、情勢が変わってくる。

 午後1時すぎになって、もく星号の乗客が全員救助されたというニュースを朝日がキャッチしたらしいとの情報が入ってきた。

 部員を総動員し、さらに経済部や政治部の記者の応援も得て、この情報の出所を確かめようとしたが、どうしてもハッキリしない。夕刊の締め切りは刻々と迫ってくる。イライラしている耳に、当時、朝日、毎日、読売の三大紙が交替でニュースを担当していたニッポン放送が「もく星号の乗客は全員救助されました」という情報を高々と伝えるアナウンサーの声が飛び込んできた。さあ一大事である。

 日航本社に出向いている記者に問い合わせたが、日航でもラジオで聞いただけで、驚き、喜んでいるという。西銀座にあったその日航本社に毎日新聞から駆け付けたのは本社社会部の安永道義記者だった。同部編「事件の裏窓」(1959年)にこう書いている。

z