結果的に「空中分解」は違っていた。同じ紙面には、当時の村上義一・運輸相が「今後の事故の調査及び今後の事故防止を期するため『航空事故調査委員会』を設置する」ことなどを発表したと書かれている。「日本航空史昭和戦後編」によれば、これが戦後の事故調査のはじまりだった。
だが、同じ紙面には「困難極める原因調査」という記事が。「原因は詳細な現地調査をしないと分からず、日航では『全く見当がつかない』と言っている」としている。
同じ日付の毎日2面には「悲しみの遺族、現地へ向かう 涙かれて“沈黙の行列”、喪服もあわれ大辻夫人」が見出しの雑観記事が。さらに「人情家だった大辻君 特異な話術も今は夢」の見出しで、漫談家仲間だった松井翠声の談話がある。
「漫談というのを創始したのは大辻君といっていいだろうが、特異の話術で人気を博し、最近は年をとってますます円熟。風格が備わってきて、再び大辻君の時代が明けようというときに全てが夢となってしまった」
「生存談話」の弁明
「キネマ旬報社増刊号日本映画俳優全集・男優編」によれば、大辻司郎は1896年8月、東京生まれ。早くに父を失い、株の仲買をしていた叔父に育てられて相場師になったが、一転無声映画の弁士を志して独学。喜劇専門の弁士として売り出す。「勝手知ったる他人の家」「胸に一物、手に荷物」など、珍説明、迷文句を考えだし、独特の奇声で観客を沸かせた。
関東大震災後、「漫談」を造語。その「家元」を自称して寄席に出演するように。弁士仲間だった徳川夢声や、喜劇俳優古川ロッパらと劇団「笑の王国」を結成。舞台や映画にも進出し、戦後も多方面で活躍を続けていた。
その大辻の「生存談話」を載せた長崎民友新聞は4月11日付で「大辻司郎氏遂に亡し 誤報につき読者に陳謝す」という社告を載せている。それによれば経緯はこうだった。
漫談界の長老、大辻司郎氏は本社主催の長崎復興平和博覧会の演芸部に、開会当日から10日間、さらに5月中に15日間、出演の約束でありました。その開会に急ぎ間に合うため、日航「もく星号」で9日、東京・羽田を立ち、博多から雲仙号で9日午後、長崎着の予定でありました。
一方、大辻氏のマネジャーは汽車で博多に先着し、大辻氏を迎えて長崎に同行するため、博多駅に待機していました。そこに「もく星号」事故の報が伝わった。一喜一憂しているうちに、全員救助の報が電波を通じて伝えられた。そこでマネジャーは大辻氏の安全を信じ、大辻氏の博覧会出演をより一層有効とするため、大辻氏があたかも語ったように談話を発表し、さらに大辻氏の令夫人の談話を東京からとって発表したものであります。
本紙は「もく星号」全員救助ニュースが国警静岡県本部から、次いで日航本社から発表された後のことであったので、大辻氏のマネジャーの発表を信じてそのまま掲載したような次第であります。