社告にあるように、長崎復興平和博は長崎民友新聞の主催で4月10日から約50日間開催された。原爆投下で長崎市北部の浦上地区が壊滅してから7年。復興を記念して被爆中心地一帯に総工費1億5000万円(2019年換算約10億1100万円)をかけて40余りの展示館を建設。100万人の入場者を見込むなど、「終戦後初の国内最大の博覧会として全日本に問う気宇壮大なもの」(4月10日付1面記事)だった。屋内演芸館には東京からの芸能人が大挙出演。大辻はその目玉の芸人だった。
背景にあった地方紙同士の激しい競争
そこには熾烈な地方紙同士の競争が背景にあった。
長崎県の新聞は、戦時統合で1県1紙の「長崎新聞」になったが、戦後の1946年12月、統合前の4紙に分離、独立した。
「長崎市内で発行する『長崎日日』『長崎民友』はライバル意識を強め、競争は次第に激しさを増していた。『長崎民友』の創始者である西岡竹次郎が知事に当選すると、『長崎日日』は野党的色彩を強める」と「激動を伝えて一世紀~長崎新聞社史~」は書いている。
復興平和博はその対立の火種となった。「県費500万円(2019年換算約3400万円)補助が県議会で論戦を招けば、その展開を連日のように報道」(同書)。長崎日日が西岡県政批判を強めれば、知事は長崎民友を使って反論するなど、対立はエスカレート。
結局、復興平和博は「長崎の街の大復興という理想を掲げながら、県費補助をめぐる県議会での論戦で水を掛けられた形となり、結果的に赤字を出してしまう」(同書)。スタートを盛り上げるはずだった大辻司郎の死は成り行きを暗示していたのかもしれない。直接的には、新聞社が主催者だったことで、大辻のマネジャーが気をきかしたつもりが「虚報」につながった。
「激動を伝えて」は「通信メディアの混乱で『長崎日日』とともに『全員救助』と報じたが、『長崎民友』は大辻司郎の生還談話まで載せたため“虚報”となり、社勢にも著しいブレーキとなる」と述べている。
持て余されていた機体
4月11日付朝刊の各紙1面には、地上から写した「惨たる『もく星』号遭難現場」(朝日の説明)の写真が。火山灰地に車輪など、バラバラになった機体の破片。その間に遺体があるのがはっきり分かるものも。特に読売は最上部に横長で掲載。航空機事故の悲惨さを浮き彫りにした。社会面では、「ドロだらけの手握り 震えて座込む遺族」(朝日見出し)など、遺体が安置された大島の3つの寺に詰め掛けた遺族の表情を書き留めている。
社説でも一斉に取り上げた。マーチン202型機の安全上の疑念に加えて、朝日と毎日は、日航の「複雑でまた不合理な組織」(朝日)に言及。ノースウエストとの「変則的な形」(毎日)が無責任体制につながったと指摘した。読売は「日航は責任をとれ」(見出し)と端的に批判。