1ページ目から読む
4/6ページ目

 マーチン202について、「写真集日本の航空史」は「日本航空はノースウエスト航空と1年間の運航委託契約を結び、1951年10月25日に第1便を東京―大阪―福岡に飛ばしたが、これに使われたのがマーチン202。同機は原型機が1946年に初飛行した中・短距離用の双発機で、43機しか生産されず」「日本航空に入ってきた1番機は『もく星』と名付けられ、1952年3月までに『すい星』『きん星』『か星』『ど星』が加わって計5機が使われた」と記述。

 同機はアメリカで遭難事故を複数回起こし、旅客機としての使用を疑問視する声もあった。日本の航空機設計の第一人者・木村秀政・日本大名誉教授は雑誌「自然」1952年7月号のエッセーで「アメリカの一流会社から完全にボイコットされ、唯一のノースウエストさえ持て余し気味だったのだろう」と書いている。当初、原因として「空中分解説」が強かったのもそのためだったのだろう。

「飛行機の旅は危険か?」「タクシーなどよりはるかに安全」

 航空輸送再開間もない時期での事故の衝撃を受けて、朝日4面には「飛行機の旅は危険か?」の見出しで「タクシーなどよりははるかに安全」とした明治大教授の評論記事も見える。それでも4月16日の読売朝刊には「空の客ガタ落ち “もく星”号遭難初七日」の記事が。「遭難の影響はようやく覆い難く、ここ数日乗客数が目に見えて減り、日航の痛手を一層大きくしている」とし、日航大阪支所の話として、団体客がバッタリ途絶え、逆に航空保険加入者が4割前後に増えたと書いている。

ADVERTISEMENT

 焦点の原因調査は、運輸省が設置した専門家らによる航空事故調査会が4月14日から活動を開始。村上運輸相は15日の衆院運輸委員会で「日航に対して政府は責任を追及する必要はなく、日航も責任をとる立場にないと考える」と言明。同時に「全員救助」の“誤報”の“出所”を明らかにした。

墜落現場の悲惨な光景(「日録20世紀」第6巻より)

 小牧飛行場を飛び立った(米軍の)飛行機が舞阪付近で“機体の一部を発見”し、小牧に帰り、埼玉県の基地に報告。掃海艇に救助命令が出された。飛行機が海面に墜落した場合は解体するのが当然だが、機翼の一部が浮いていることは、意識的に不時着したという判断が生まれてくる。その場合は1時間から2時間、あるいは3時間も浮いている時があるので、救助に向かえば生存しているという判断もあるわけだ。あの場合は「助かっているはずだ」という救助の材料がいろいろ総合されてニュースになったものだと思う。政府でも確認に努めたが、(海上)保安庁ではついに確認できなかった。救助していないことが分かったのは夕方だった。一方、八幡製鉄が知り合いに個人的に当たったところ『オールセーフ』ということを聞いたので、各方面に無事だというニュースが出された。日航でも「全員救助」というニュースを出したが、これも日航が外部から聞いたことで、政府ではこうした報告は出していない。

 これでも何が何だかよく分からない。原因については「高度計故障が原因」(4月12日付毎日朝刊)、「空中放電恐れ低空か 尾翼に落雷の跡」(4月26日付朝日夕刊)などの報道もあった。4月12日付読売は「もく星号は何を教えたか?」と題して「原因究明の仕事さえ、実を言うと、まだ航空禁止が解かれない。現在日本側は各事項にわたって詳細な資料を持っていないので、極東空軍及び米CAA(民間航空局)の積極的な協力がない限り、正確な調査は望めそうもない」と指摘。日航は営業などの地上業務、ノースウエストが整備も含めた運航という“二元行政”が調査でもさまざまな不都合を起こしている、と主張した。

 4月19日には東京・築地本願寺で犠牲者の合同葬儀が行われたが、同じ4月の28日、サンフランシスコ平和条約が発効して日本は正式に独立。国民のお祭り騒ぎや、独立後のさまざまな課題の報道に新聞紙面が割かれ、事故の衝撃は一気に薄れた。