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「歯切れの悪い結論」

 調査結果は朝日の記事だけではよく分からないだろう。コンパクトに書かれた「環境・災害・事故の事典」の該当部分に頼ろう。

犠牲者のひつぎに集まる遺族ら(読売)

 この当時、航空交通管制は全て米軍の手で行われていた。埼玉県・入間町(現入間市)の(米軍)ジョンソン基地に管制センターがあり、ここで飛行機に対する管制指示を出していた。羽田の管制塔はセンターからの指示を飛行場に伝達する役目をしていた。

 日航301便(「もく星号」)は出発のとき、管制塔から「大阪までの飛行高度6000フィート(約1829メートル)。ただし、館山通過後10分間は高度2000フィート(約610メートル)を維持すること」という指示を受け取る。機長は大島上空の規定高度が6000なので、この指示に抗議すると、管制塔は「館山ではなく、羽田出発後10分間は高度2000を維持。その後6000」をとるよう訂正してきた。機長はこれを復唱して離陸して行った。羽田を出発した後の交信は、管制塔から「東京コントロール」(ジョンソン管制センターのこと)に替わる。同機は7時57分に館山上空を通過するが、この時の位置通報は「館山通過、高度6000で雲中飛行」であったと、東京コントロールでは主張していた。

 だが、「東京モニター」(この所在が不明瞭)の記録では「高度2000」であったと言い、この情報が日本側に漏れていた。いずれが正しいかは東京コントロールが記録していた交信テープを聞けば分かることだが、日本政府の再三の要求にもかかわらず、米軍は最後まで交信テープの提出を拒み通した。

 衝突した地点はコース上であり、高さはちょうど2000フィートの所であったことから、同機の運航は正常であり、正確にコース上を飛行していたものと思われる。

 当初期待していた米国極東空軍との共同調査は実現せず、単に米空軍の好意的協力にとどまった。(ジョンソン管制)センターで指示を出していた米極東空軍からは1人も調査(委員)会に加わらなかった。

 事故から45年後に出版された「日録20世紀」第6巻「1952年」では、当時機長を送ったハイヤー運転手が「明らかに酩酊状態だった」と明言。航空評論家の関川栄一郎氏も、機長酩酊説が有力と考えているとし、「占領下という状況を考えれば、米軍とアメリカのメンツを保つために事実を隠蔽した可能性は高いと思う」と述べている。

 作家・松本清張氏も、フィクションを織り交ぜた遺作「一九五二年日航機『撃墜』事件」で推理している。調査会の報告に「もく星号」が離陸当時、「アメリカ空軍の輸送機が1機、羽田上空2500フィート(約760メートル)の高度で空中待機中であり、なお約10機が付近を航行中」とあったことから、「もく星号」は米軍機から仮想敵として攻撃を受け、それを避けようとして三原山に突っ込んだと。

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「もく星号」(「写真集 日本の航空史 下」より)

 いずれにしろ、「環境・災害・事故の事典」が言うように、事故調査会の結論は「抽象的で歯切れの悪いものであった」。真相は永遠の闇の中で、事故は占領下の悲劇の1つともいえる。「画報現代史 戦後の世界と日本第12集」は事故の写真を集めたページに「借りもの航空の惨劇」の大見出しを付けた。その中でも「環境・災害・事故の事典」が書いていることがわずかな救いだろうか。

「安全上最も大事な運航を外国会社に委託するという変則運営に批判が高まり、この事故が契機となり、自主運航への気運は急速に高まっていった」

【参考文献】
▽高田秀二「物語特ダネ百年史」実業之日本社 1968年
▽毎日新聞社社会部編「事件の裏窓」毎日新聞社 1959年
▽「共同通信社50年史」共同通信社 1996年
▽回想録編纂委員会「三鬼隆回想録」八幡製鉄 1952年
▽「別冊1億人の昭和史昭和史事典」毎日新聞社 1980年
▽「日本航空史昭和戦後編」日本航空協会 1992年
▽「キネマ旬報社増刊号日本映画俳優全集・男優編」キネマ旬報社 1979年
▽「激動を伝えて一世紀~長崎新聞社史~」長崎新聞社 2001年
▽「世界の翼シリーズ写真集日本の航空史(下)」朝日新聞社 1983年
▽「環境・災害・事故の事典」丸善 2001年
▽「日録20世紀」第6巻「1952年」講談社 1997年
▽松本清張「一九五二年日航機『撃墜』事件」角川書店 1992年
▽「画報現代史戦後の世界と日本第12集」国際文化情報社 1955年

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。