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切断された校舎、崩落した橋…熊本地震の傷跡を伝える「震災遺構」の生々しさ

熊本地震“復興と傷跡”を追う #2 

2021/04/14
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熊本地震の「震災遺構」

 戻った後も、橋本さんと「大学」の縁は切れなかった。

 地表断層が生々しく走る旧校舎は、熊本県が譲り受けて「震災遺構」として保存した。20年8月に公開し、地元住民らが被災体験を交えるなどして遺構のガイドを務めている。そのうちの1人として活動を始めたのである。

 発災から5年が経つ熊本地震は、復旧や復興が進む一方で、人々の記憶から薄れ始めている。だが、忘れてしまっては、教訓がいかされない。そこで、県は蒲島郁夫知事の肝いりで震災遺構の保存に乗り出した。震災ミュージアム「記憶の廻廊」として58件が登録されており、これらを巡ることで、観光にもつなげようと戦略を練っている。

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 東日本大震災ではメディアを賑わせた震災遺構だが、他の災害ではあまり注目されていない。熊本地震の遺構とはどのようなものなのか。

全壊した橋本艶子さんの自宅や下宿・アパートの写真

阿蘇大橋の残骸は今も……

 取材に訪れた日、橋本さんは広島市の高校教諭、冨永和志さん(40)の一家を案内していた。冨永さんは同校舎の卒業生で、妻も同級生だ。「遺されると聞いていたので、公開が始まったら来ようと言っていたんです」と冨永さんは語る。

「断層は深さが70センチほどあります。これが事務室の中にまで続いています」。橋本さんが案内すると、「あれっ、Y字型の建物だったのに、左右が切断されている」と冨永さん夫妻が声を上げた。

「下の地面は今もまだ動いていて、校舎は真ん中から左右に傾き、引き裂かれるような形になっています。両側を切らないと保存できなかったんですよ」と橋本さんが説明する。

冨永和志さんを案内する橋本艶子さん(旧東海大阿蘇校舎)
シートの下から校舎に向けて断層が走る。Y字型の校舎は左右が切断されている(旧東海大阿蘇校舎)
生々しい地表断層(旧東海大阿蘇校舎)

 正面玄関では、山腹が大規模に崩落した「数鹿流(すがる)崩れ」が眼前に見えた。この崩落や揺れで、真下にあった阿蘇大橋が峡谷に落ち、熊本市内の大学に通う学生が亡くなった。阿蘇大橋の残骸は、今も峡谷の断崖絶壁に引っ掛かったままで、数鹿流崩れと共に震災遺構に選ばれた。

 橋本さんは「亡くなった大学生はいい子だったんです。前震で断水した熊本市の友達のために水を持って行き、翌朝から家で農作業の手伝いをするために帰宅していた最中でした。真面目だったばかりに被災して……」とうつむく。冨永さんは「あの橋は僕らも通っていました。残骸を見た時には胸に迫るものがありました」と目を赤くした。他人事には思えないのだ。

崩落し、断崖絶壁で引っ掛かった阿蘇大橋(南阿蘇村)

 どの下宿の食事が美味しかったかの思い出話にも花が咲いた。橋本さんは「それぞれ自分の田んぼで作る米だったから美味しいわよ」と胸を張る。だが、地震で田んぼに水が引けなくなって、栽培できなくなった。「今は牧草を植えています。大学があるなら、また作ろうかと力も湧くんだけど、もう食べてくれる学生もいないしね。私達は生業(なりわい)を失いました。寂しくなった村は、震災遺構も含めた観光で生きていくしかないのかな」と自問するように話す。