冨永さんは「僕らにとっては、学舎を残してくれただけでもありがたい。こうして『帰りました』と戻って来られるのですから。大学は移転しても、ここはやっぱり第2の故郷なんです」と力を込めた。
一家は「お元気で。また帰って来ます」と何度も手を振りながら旧校舎を後にした。
連続して震度7に見舞われた益城町
旧東海大阿蘇校舎の他にも、見る人に衝撃を与える遺構がある。その筆頭は益城町の断層だろう。
同町は前震と本震の2回、震度7の激震に見舞われた。
震源となったのは布田川(ふたがわ)断層帯で、学術的な貴重さから国の天然記念物に指定された。
地表に露出した断層は断続的に約31キロメートルにも及んだが、このうち益城町では3地区を震災遺構として保存展示することにした。
そのうちの一つは、谷川(たにごう)地区だ。上空から見ると、V字型に断層が走っている。土地は両方から押すようにして圧力を掛けると、斜めに割れてずれるのではなく、X型に割れ目ができる場合がある。これを共役(きょうやく)断層といい、その典型例だとされる。民家の庭にX型の半分のV字が見られ、現在は本格整備に向けてシートが掛けられている。断層の真上に建てられていたため、倒壊寸前になった納屋と一緒に保存される。
そして、杉堂地区。潮井(しおい)神社の石段の途中が1メートルほど横ずれしている。石段は崩れたまま、鳥居や巨木も倒伏したままの状態で、破壊の激しさを物語る。神社のすぐそばには断層崖があり、その下部から湧水が流れ出ている。地域で大事にされてきた潮井水源である。
断層があるがゆえに、阿蘇山からの伏流水が湧き出しているのだ。断層は災害を引き起こす一方で、人々が自然の恵みを享受する手段にもなってきたことがうかがえる。
さらに、堂園地区。田畑の中に延長180メートルもの横ずれ断層が出現した。横ずれ幅は約2.5メートルにも及ぶ。これだけ動いたのだから、住宅の被害は著しい。柱が破断するようにして倒壊した家が多く、48世帯のうち36戸が半壊以上となった。
「次の世代に伝えなければならない」
堂園に壊滅的な打撃を与えたのは16日未明の本震だ。農業を営む田上勝志さん(55)は、前震発生時から走り回ったため、疲れ果てて熟睡していた。気付いた時には倒壊した家の下敷きになっていて、挟まった左足を自力で引き抜き、はい出した。
妻はタンスの下敷きになっていた。近所の人の力も借りて40分ほどで助け出したという。警察車両で熊本市民病院に運んだが、同院は倒壊の恐れがあるとして受け入れてもらえなかった。済生会熊本病院に搬送すると、トリアージの「赤」と判断された。6カ所も骨が折れていて、すぐに治療しなければ命に関わる重傷だった。その後、2カ月以上入院することになる。
これほど激しく被災した地区であるのに、復旧や復興への動きは早かった。既存の自治会とは別に、まちづくり協議会を結成し、狭かった道路の拡幅や、避難用の公園の整備などを盛り込んだ提案書を、他地区に先駆けて町役場に提出した。この協議会の会長として議論をリードしたのは田上さんだ。