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家族との思い出を綴っていた和也

 深い反省には至っていない。自分の事件を母親のせい、その生い立ちのせいにしている節もある――和也と面会を重ねた印象はこうしたものだった。

 彼は自分でも口にするように両親への憎悪をずっと持って生きていた。東京拘置所で語った言葉だ。

「母親を責める気はない。でも、みんな等しく悪い。俺が一番悪いけど、母親も父親も。もっと親に対して言いたいことはあるけど、言いたくない」

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遊園地で父(左)と(1992年、母提供)

 反面、母親に対し特別な愛情も持っていた。幼少期に家族3人で遊園地に遊びに行った時の手記の記述である。

〈お菓子か、アイスを買ってもらい近くの人工池の囲いに腰をかけて座り、兄弟並んで食べていた。

 

 そのお菓子に、夢中になっている子供の姿を思い出に残そうと、母はインスタントカメラを手に写真を撮った。

 

「みーちゃーん、カズー」と母が呼んだ。

 

「ん?」

 

 と思って声の方を向いたらパチリとフラッシュと音がした。

 

 カメラを片手にいたずらが成功したようにはしゃぐ母。

 

 母のしてやったりな顔が「ニシシ」。

 

 まぶたの裏に浮かんでは薄れていく〉(和也の手記より)

 買い物帰りか、親子3人で自転車に乗る記憶である。

〈後輪側にまず姉が座らされ、その次にボクが前輪側に座った。うろ覚えだが「まえ! まえ!」とごねた自分が当時居たのかもしれない〉(同)

 幼稚園の帰り、母親が2人の子供を乗せての自転車の操作に慣れておらず転倒し、和也が頭を打った際に自分を気遣ってくれた思い出だ。

〈あっちを向けられ、今度そっちを向けられて、せかせかと動き回る母。決して首をコマの様に回された訳ではないが、自分でも確かめたので困った反面、その母の想いが嬉しく感じてボクは目を伏せたんだった〉(同)

 5年間に渡り書き続けられた手記で綴られたのは、母親への恨みや事件の反省ではなく、母との楽しかった思い出ばかりだったのだ。