1ページ目から読む
2/5ページ目

給料の額にあきれて帝キネを出る

 歌川八重子、松枝鶴子、沢蘭子などという、当時の先輩大スターがめじろ押しに並んでいる帝キネへ乗り込んだのです。負けるものか、という気力だけでもたいへんなものでございました。その人たちからみると、歯牙(しが)にもかからぬニューフェース級の私、意識するほどの存在でもなかったでしょう。ここでは、百々之助さんの提示された給料の額と、いざ月末になって渡されたものとがあまりにも隔たりがあり過ぎて、びっくりして、百々之助さんにそのことを申しますと、「会社では、天下の百々之助の相手役をさしてやってるんや、ただでもええくらいや、てなこと言うて、わいの言うこと受け付けよらへん、かんにんしてんか」という、まことに無責任きわまる返事、いかなる私も、あいた口がふさがらず、席をけ立ててその場をあとにいたしました。もちろん、そのときかぎり帝キネへはまいりませんでした。

写真はイメージです ©iStock.com

 もともと帝キネというのは、古い従来の太夫元(たゆうもと)と呼ばれていた興行師が、営利一点張りの製作方針で創立された会社で、それは、それで結構なのですが、たとえば、先年、日本国中を風びした「籠の鳥」を映画化して、巨万の興行収入をあげたときも、そのシナリオを書いた佃血秋(つくだちあき)さん(当時のシナリオライター)に払った脚本料がわずか20円、いかにたばこが10銭前後、お酒が1升1円前後で買える時代としても、この脚本料はあまりに人をばかにしている、というので談判に及ぶと、

「君、あれは何か書いてあるから、まだ20円も支払うんや、くず屋へ持って行ってごらん、1銭にもなりゃせんよ」

ADVERTISEMENT

 というひどい返事、もう話にもなんにもならんと、佃さんはプンプンしてその場を帰られたそうで、これは、ずっとあとに、御当人から直接お聞きした話ですが、万事そのイキで通してこられたものとみえます。

 今のかたには想像も及ばないことでしょうが、日本の映画界が、そういうところから今日に続いているということは、何かわかるような気がいたしませんでしょうか。