一流の俳優たちと武者修行の日々
さて、帝キネもそんなことでやめましてからは、私も少し考えが変わってまいりました。体当たりの大車輪で、今まではお茶をにごしてはきましたが、俳優の演技というものは、ただそれだけではいけないことが少しわかりかけてきたのです。志を立ててこの道を選んだからには、正しい演技を身につけたりっぱな先輩たちの中で、もっともっと、技をみがき、心を養わねば、変なところで固まってしまうだろう。
映画で百々之助さんの相手役をしたお陰で、客寄せの看板に迎えられて、地方回りの興行に借りられたり、器用になんでもこなすので、急場しのぎに使われたりして、悩みながらも生活のために、一年ばかりを身をすりへらして働きましたが、そのうち松竹の庄野さんというかたに(このかたが新国劇の育ての親と言われています)認められて、大阪では一流の俳優を集めて結成された新潮座へ迎えられることになったときは、夢かとばかりに思いました。
今では皆さん故人となられた劇壇の大先輩ばかりですが、都築文男、山口俊雄、野沢英一、三好栄子、葛城文子(かつらぎふみこ)、守住菊子というかたがたが中心で、若手組に、ただいまも盛んに活躍されている進藤英太郎さん、原健策さん、それに三益愛子(みますあいこ)さんも、水町清子という芸名で加わっておられました。
私は、よほど、その庄野さんに気に入られていたと見えまして、松竹の専属といったような形式で契約していただき、それからは松竹系の新声劇(中田正造、辻野良一、伊川八郎、小笠原茂夫、小波若郎、和歌浦糸子、富士野蔦枝)、第一劇場(阪東寿三郎[ばんどうじゅさぶろう]、石河薫)と、移動させられ、まことにとうとい他流試合、武者修行で、思う存分勉強のチャンスを与えていただきました。私に、いささかの演技の技術があるとすれば、この時期に学びとったものが基礎となっているでしょう。進藤英太郎さんは、はじめの新潮座と、あとの第一劇場で再び御いっしょになりましてからの御縁で、それ以後ずっと、ただいままで変わりなくおつき合いいただいております。
私が、新潮座へ加入いたします前後、昭和3年の2月、まさか後日その人と結ばれるとは夢にも思わぬ渋谷天外(しぶやてんがい)さんが、曽我廼家十吾(そがのやじゅうご)さんとの松竹家庭劇で、自分の本名一雄から、亡父天外の名を襲名して、その記念の公演が中座(なかざ)で行なわれておりました。