9歳のときに道頓堀の芝居茶屋に女中奉公に出され、芝居の道に飛び込んだ竹井千代の波乱万丈な生涯を描いた連続テレビ小説『おちょやん』が急展開を迎えた。物語は佳境を迎え、日々の放送を心待ちにしている人も少なくないだろう。
ここでは千代のモデルとなった昭和の名女優、浪花千栄子氏の自伝的エッセイ『水のように』(朝日新聞出版)を引用。失意のなか見つけ出した“終生のすみ家”についての印象的なエピソードを紹介する(全2回の2回目/前編を読む)
※浪花千栄子は竹井(天海)千代のモデルとなった人物、渋谷天外は天海一平のモデルとなった人物です。
※本記事は劇中の内容に触れる可能性がございます。ご注意ください。
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夫は新しい女に家を買い与えた
大恋愛の末に結ばれたわけでもありませんし、正式にお見合いをして式をあげた結婚でもございませんから、いやになったから捨てたんだとおっしゃれば、それでもよし、うるさいから逃げ出したんだとおっしゃるなら、それもまたよしと思って弁解はいたしませんが、忠臣蔵の判官切腹のような片手落ちの一方的に、私は渋谷天外さんと離婚いたしました。
20年連れ添って、さんざん苦労させられた妻である私に、ついに、自分たちの住み家と名のつくものを与えなかった人が、新しい女と同せいして4か月目に、無理苦面してまで家を買い与えたという事実は、別れて後、私を激怒させるに十分でした。
それまでは、私は人を憎むことのむなしさを知っていましたから、いっさい私が至らなかったからだという反省に明け暮れて、きっと仕事の上で見返しますからね、とだけ心に誓っておりました。
私が、自分の家を建てようと決心しましたのは、「向こうがやるんなら、こっちも負けるか」というようなそんな浅はかな動機からではありませんが、心のよりどころとしての、生活の基盤としての、たとえ小さくてもわが住み家を持つことが、さしずめの急務で、それが人間浪花千栄子を再建する根本問題だと悟ったからでございます。
ただ、私は故なく敗軍の将になることは好みませんから、どうせ建てるのなら、向こう様並みの人のまねではいやだ、と思ったことは事実です。どっちころんだって「なにくそっ!」という負けん気はありましたが、ただ「なにくそっ!」だけでは10年かかったって家は建ちません。
自分の家を持ちたいという思い
当時大阪NHKのディレクター富久進次郎さんの熱心な支持と、花菱アチャコさんの名声の背中におんぶして、私の「アチャコ青春手帖」の、アチャコのおかあさんは、回を重ねるごとに好評を得、全国津々浦々に、その名を知られるようになりました。
それがきっかけとなり、映画にもちょいちょい顔を出すようになり、浪花千栄子の株はやや上昇してまいりました。
結婚に破れて、今まで何年か、仮のねぐらとしていた松竹寮を出て、失意のまま故郷へもどるわけにもいかず、とりあえず、京都公演の都度御厄介になっていた河原町四条近くの、あるお家の二階借りをいたしていましたが、収入も不安定なそのころの二階借りの遠慮から、私は、どうにかして、小屋でもいいから自分の家をと、寝てもさめても毎日思わぬ日とてはありませんでした。
月々家賃のつもりで6万円ずつ掛け金をしてゆくと、10か月目に家を建ててくれるという、名の通った建築屋さんも訪れてみました。
どうやら、この調子でがんばれば、月々6万円くらいは、どうにかできるようになるかもしれぬ、という、少々甘いが、そんな見通しもないわけではありませんでした。