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お仕事のほうも、どうやら順調に、少しずつ、少しずつではありますが忙がしくなってきております。私の家への執心もそれに正比例して強くなってきて、ついに考えあぐねて、川上拙以(かわかみせつい)画伯(川上のぼるさんのおとうさんで、松竹家庭劇以来の後援者ですが、一座のだれかれなしに、たいへんお世話になっている円満なかた。京都に在住しておられます)に御相談に伺いました。

 離婚以来、はじめての訪問で、少々おもはゆい気もいたしましたが、苦労人の先生も奥様も、私の心の傷心(いたで)には少しもおふれにならず、「よくたずねて来てくださった。どうされているかとたいへん心配していた、が、ラジオの『アチャコ青春手帖』が大評判でいつもうわさしてたところだった」とあたたかく迎えて「人間は七ころび八起き、災い転じて福となすつもりで、大いにがんばってください。たとえ天外さんと別れても、あなたはあなた、できることなら、なんでも相談に乗りますよ」と、涙のこぼれるようなお心づかいを受けました。

倹約を重ねて貯めた40万円

 そこで、家を建てるについての一部始終をお話しいたしますと、御夫妻口をそろえて、

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「月々6万というお金を掛けてゆくとおっしゃるが、それは、とてもたいへんなことですよ。それよりも、掛けるつもりで、自分が積み立てて40万でも50万でもたくわえることです。それだけまとまったら、建築のほうは、なんとでも相談に乗ってあげよう、そしてあなたの好きなように家を建ててあげよう。私の家は兄弟も建築関係の仕事をしているのが多いし、あなたのためになる、いい建築屋さんを紹介もしてあげる。とにかく、掛けると思って、きょうから積み立てなさい。それが、一番りこうでいい方法ですよ」と、かんで含めるような御親切で、いろいろ建築についての知識もさずけてくださるのでした。

 私も、この川上先生御夫妻のおことばに力を得て、仕事に精進するかたわら、大いにお金をためることにも精を出しました。そして、心に受けた大きな傷口も、少しずつ治ゆしてゆくようでありました。

写真はイメージです ©iStock.com

 なにもかも灰にしてしまった戦後の混乱の中で、なりふりかまわず、劇団と一座の座長である夫のために一身をささげつくしてきた私ですから、お恥ずかしい話ですが、ほとんど裸同然、着物も帯もチグハグで、仕事の面が急激に開拓されてゆくにつれ、なにしろ人前へ出る人気商売、そのほうへも心をくばらねばならず、お金というものは、はいるにしたがって出てもいく、まことにおあし(お足)とはよく申したものでございます。それこそ倹約に倹約をして、昭和27年の12月には、どうやら40万円の現金が積み立てられました。

 さっそく川上先生の御指示にしたがって、土地さがしが始まりました。ぜいたくは申せませんが、私にとっても、これは終生のすみ家となるべきところ、欲を言えば、たとえばどんな小さな地所でもよい、高台寺あたりの高台か、南禅寺付近の閑雅(かんが)な地、そこらあたりが、望ましいところです。仕事の合い間をぬって、どこそこにかっこうなところがあると聞けば飛び、どこそこに格安なところがあると知れば走りいたしましたが、どれも帯に短かし、たすきに長しで、土地さがしというものが、我々の役づくり以上にむずかしいものであることを、身にしみて感じさせられました。