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山ザクラの巨木のあるその土地は…

 そして福井さんは、上田さんに「さて、おふたりおそろいで御来訪の、御用のおもむきは何か」とおたずねになりますと、上田さんは「このかたが、なんとかして嵐山に自分の家を建てたいと希望しておられるんだが、どこか、御存知のところでかっこうの土地はないか、と実はおたずねにあがったしだい」だと申されますと、関管長がすぐ、

「それは不思議な因縁だ、実は、東京の友人が持っている地所で、私にいっさい任せられている土地が180坪あるが、現金50万円くらいなら、しかるべき人に譲ってあげてくれと言われて、帰ってきて、いま、ここで、その話をしていたところです」

 と申されるのです。そして、つづけて、

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「その友人は、自分の所有のその土地を知らない、だからそんな慾のないことを言うのだが、その地内には、樹齢約150年を経た山ざくらの巨木があって、50万円はそのさくらの値段にも当たらない安い売り値ですよ。あなたなら、文句なしに譲らせましょう」

 とおっしゃるのです。

 山ざくらの巨木のある土地と聞けば、あのお百姓さんに、にべもなく断られた、あの土地ではありませんか。気もそぞろで、管長さんに問いただすとまちがいなく、あそこの土地です。

写真はイメージです ©iStock.com

赤の他人様の愛情と御好意にふれて

「まあなんという結構なお話でございましょう、身に余るお話で、夢のようでございますが、残念なことに、ただいまは40万円しか持ち合わせがございません。すぐに、明日、明後日10円つくるというわけにもまいりません。ノドから手の出るほど、譲っていただきたい地所ではございますが、もうしばらく、全額そろいますまでお待ち願えませんでしょうか」

 と、私が管長さんにお願いいたしますと、今度は、さっきからじっとお話を聞いておられた福井さんが、

「浪花さん、きょう、はじめて実物の御本人にお目にかかり、いきなり、こんな出しゃばったことを言うのは失礼ですが、私が、その不足分の10万円をお立て替えするから、即座に譲っておもらいなさい。西北が高く、南東が低い、あんな最良の土地は、そうザラにはありません。そのうえ、国宝級の山ざくらももちろんですが、裏はすぐ天龍寺の地内につづいていますから、小倉山はあなたの家の庭のながめですよ」

 20年の、没我の献身を、それも妻と名のつく者をかんづめのあきかんかなんかのように、ぽいとけとばした人間もあれば、ただ、ラジオで声だけ聞いていただけの、しかも赤の他人様の、このあふれるような愛情と御好意もある。そのとき私は、喜びと感謝のために、声も出ないくらいでございました。

【前編を読む】「よく、だましてくださいました」「御礼申し上げます」 NHK連続テレビ小説『おちょやん』主人公の“悲痛に満ちた思い”

水のように

浪花 千栄子

朝日新聞出版

2020年11月6日 発売