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かつて死に場所を求めた京都・嵐山

 失意のどん底で、夜の嵐山へ死に場所を求めたこともありました。忘れもしません、意を決して飛び込もうとした瞬間、私の背後に、モーターバイクのけたたましい爆音が響き、若い人が2、3人、風のように私のかたわらを通り過ぎました。私は、こうして、二度目の自殺も失敗してしまいました。

 その苦い思い出のある嵐山ではありますが、それゆえにこそなおさら、そこしかないと考えるのでした。

古くからの御ひいきさんを訪ねて

 そして、そこには、天外といっしょのころからの御ひいきで、「日本にも役者の女房はずいぶん多いが、東の青山勝子さん(故花柳章太郎先生夫人)と、西の浪花千栄子さんにまさる女房なし、ふたりは男を成功させる賢夫人のかがみで、甲乙なしの双璧ともいうべき女性である」と、まことに過分な賞賛を受けて、個人的にも、以前はたいへんご厚ぎをいただいた戦前の大阪で手広く御商売をやっておられた上田富貴さんとおっしゃるかたが、疎開からそのまま居ついて、今は、お花とお茶を友として、のんびりした生活を送っておられるのを思い出しました。

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 私が、道頓堀の仕出し料理屋に奉公しているころ、当時南地の名妓(めいぎ)とうたわれて、写真のモデルになって道行く人のせん望の的だったのがこの上田富貴さん、浪花座の前の写真館のウインドウに、夏の湯上がり姿で、艶れいな笑顔の大きな写真が出ていました。紅さし指でくちびるへ紅をさしているそのポーズのあでやかだったことは、子供心にも、見あきないチャーミングなものでした。

 その人が、月移り年変わって、御ひいき客として私の前へ現われようとは、ほんとうに、つきせぬ御縁と存じております。ですから、思い出さぬわけはなく、心の隅には飛んでも行きたいものがありましたが、天外との破局をくわしくお話し申しあげることの気重さを考えると、ためらうものがあり、それに、そのためかえっていらぬ御心配をかけることになっても不本意なので、わざと遠慮していたのです。

写真はイメージです ©iStock.com

 ところが、もうマス・コミの表面へ浮かび上がった今となりましては、お伺いしないほうが人の道にはずれることであると考え、そのうちおりを見て御ぶさたのおわびにあがろうと思っていたやさきでもありました。

 ちょうどいい、御相談がてら上田さんをおたずねしよう、と思いたって、大映からまっすぐ、幾月ぶりかで、嵐山へやってまいりました。