著者の母の幼少期から死までが語られた本書を読み終え、ふと、このお母さんの名前はなんだっけ、と思った。三百ページ以上も彼女の生涯について読みながら、私はその人の名前を認識できなかったのだ。
確かどこかに書いてあったはず、とページを繰る。「母」の妹・節子、姉・千代子、母親・トク、父親・榮助。そしてやっと兄・富美男の発言に彼女の名前を見つけた。「シゲル(母の名)の学費ぐらい、おれが稼ぐ」。丸括弧で(母の名)と注釈がある。そして、母自身はシゲルという名を好まなかった旨の一文があり、これ以降彼女の名前は出てこない。彼女は終始「母」という人称で著者から語られている。
本書は精神科医である著者が、昨年急逝した実母の存在を見つめなおし、探求する手記だ。そのため、大部分が母(あるいは著者と母)の歴史について書かれている。戦後に育ち、コロナ禍に亡くなるまでの母の生涯には、一般的に「身内の恥」とされる部分まで赤裸々に綴られており、著者もその点を認識している。
これはどう考えてもフェアではない。資料に基づきようがないその時々の母の言動や表情のほか、稼業の失敗、堕胎、病歴、事故、親族との諍(いさか)いまで細かく書かれているにも関わらず、事前に内容を確認することも、公開に苦言を呈することも、反論することも、亡きシゲルさんには叶わない。
しかし、まさにこの「フェアではない関係性」こそが、母子の内包する――あるいは「内包させられる」――難しい課題かもしれない。著者の母は「わが子の邪魔だけはするまい」という人だから、仮に存命していても、本書にあまり口を出さなかっただろう。著者も、母が本書を(そして息子である自分を)結局は許すことを確信しているからこそ「どうか、お母さん、許してください」「ありがとう」という一方的な呼びかけで「あとがき」を締められるのではないか。
母の死後数カ月という短期間で本書は書かれており、本書の執筆によって著者は癒されている。息子の心が癒えるのならば「母」はすべてを許すだろう。しかし「シゲル」として、果たして不満のない内容だっただろうか。著者の母・シゲルと同じ「母親」という役割を担う存命の一個人として、私は考え込む。
フェアネスと書籍の魅力はイコールではなく、本書の魅力はそのアンフェアさにある。子の視点から描かれた母子の歴史は、ぐるぐる変化する鮮やかな万華鏡のようだ。子の視点だからこそ見えた「像」もまた、語られる価値があり、読み応えがある。
著者は「母親の死」というテーマの公共性や共感性に幾度も言及しているが、果たしてそんな大義は必要だろうか。実際に本書に刻まれ、私を惹きつけたのは、母を失った著者個人のとても静かな慟哭だった。
おかだたかし/1960年、香川県生まれ。精神科医、作家。2013年から岡田クリニック院長。パーソナリティ障害、発達障害、愛着障害を専門とする。『母という病』『生きるための哲学』等著書多数。
しばたあおい/1982年、神奈川県生まれ。歌人、ライター。第一回笹井宏之賞大賞を受賞後、歌集『母の愛、僕のラブ』を出版。