「毒親」という言葉が広まり、SNSなどで昔のトラウマを語る声も見られるようになった。過干渉や暴言・暴力などで、子どもを思い通りに支配したり、自分を優先して子どもを構わなかったりするこうした「毒になる親」は、何も現代に限った話ではない。
そんな歴史上に登場する愛憎入り混じった関係の親子を取り上げ、その確執が日本史に与えた影響を解説する新潮新書「毒親の日本史」(大塚ひかり)より、一部を抜粋して引用する。
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毒親の特徴は「支配的」であること。
その一つの表れが「介入」です。
結婚に、仕事に、介入する。そこで自分の欲望を子に押しつける。
もっとも前近代、仕事の多くは生まれた時に決まっている上、親が結婚に介入するのは当たり前でした。これは度が過ぎている……というケースがあったとしても、果たして当の子どもがどう感じていたか、多くの場合、分かりません。状況証拠によって、憶測で判断するしかないのです。
そんなふうに状況証拠からして毒親判定できるひとりが、平安時代の道綱母(933か936ころ~995)です。
歌人で、『蜻蛉日記』(975年ころ)の作者として有名な彼女は、当時の女の常で、本名は伝わっていません。その呼び名は、藤原兼家(929~990)とのあいだに道綱(955~1020)を生んだことから付けられたものです。
この道綱が女に送ったラブレターと、女からの歌の内容が、道綱母の記した『蜻蛉日記』には何通も克明に記されています(下巻)。
しかし、これらの手紙や歌は「母の指導のもとに詠んだか、あるいはおそらく母が代作したのであろう」(新編日本古典文学全集『蜻蛉日記』頭注)とも言い、私もそれに同感です。
が、息子に代わって、あるいは息子自身が詠んだにしても、その恋歌や女からの返歌も日記に記すというのは、現代人の感覚では考えにくいものがあります。
この時、道綱18歳。当時の結婚適齢期ですよ。思春期の子って、そういうの、いちばん親に知られたくないじゃないですか。
携帯電話もない昔、こそこそ公衆電話で好きな人に連絡していた18歳のころの私なら、「やめてーーーー!!」と叫んでいたでしょう。
しかも、あとで触れるように、この日記、世間に公表することが前提で書かれ、実際、世に流布していたんですから……。
ラブレターの返信は親がしていた?
といっても実は、平安中期、ラブレターの返信を親がするというのはありがちなことで、『源氏物語』でも、明石の入道が娘に代わって、源氏に返事を書いています。
「結婚」の意味が今とは違うとはいえ、戦国時代の政略結婚などと違って、平安時代は恋文のやり取りをした上での結婚です。それでいて親の介入もあるので、こういうことが起きるのですが、自分の手紙が相手の親や、その他の人に読まれることが嫌なのは、当時の人も変わりません。