道綱と文のやり取りをした女も、道綱の背後に彼の母がいることに気づいていたのでしょう、
「風が吹けば空に乱れる蜘蛛の糸みたいに、手紙が散ると知りながら、返事を書くことなどできません」(“蜘蛛のかくいとぞあやしき風吹けば空に乱るるものと知る知る”)
と、自分の書いた手紙が道綱以外の人の目に触れると知りながら、返事などできないと訴えています。
道綱と女がその後どうなったのか、女の素性などについては今となっては分からずじまいです。
「毒親育ち」の道綱
分かるのは、『蜻蛉日記』を読む限り、道綱母は間違いなく毒母で、息子の道綱はかなり可哀想な育ちをしているということです。
そもそも道綱母の夫・兼家には複数の妻がいた。
道綱母との結婚時、誰が正妻と決まっていたわけではないにしても、当時の政治の具として欠かせぬ女子を生んだことなどから、藤原時姫が正妻(『尊卑分脉』第二篇には“妾”とありますが)に定まったと考えられます。
けれど、一夫多妻の当時、兼家にはほかにも通う女がいた。
その影は、道綱母が道綱を生んだ時からあって、不安になった道綱母は時姫と歌をかわしたり、新たに兼家が通い始めた女の家を突き止めたりしています。そして、この女の生んだ子が死んだと知ると、
「今こそ胸がすっとした」(“いまぞ胸はあきたる”)
と快哉を叫びます。
こういう正直なところ、自分の心のマイナス部分を見つめて描き出すところに、この日記の面白さ、作者の魅力があるのですが……。こんな母を持った息子はたまったものじゃない。
相変わらず、たまにしか来ない兼家の、
「すぐ来るね」(“いま来むよ”)
という口癖を、片言のお喋りができるようになった数えで3歳の幼い道綱が、聞き覚えてしきりに真似をする、などと日記に書かれてしまう。
小さいころから両親の男女の部分をもろに見せつけられ、12歳の時、父母が大喧嘩した時は、父・兼家にわざわざ呼ばれ、
「もう俺はここに来ないからな!」
などと捨てゼリフを浴びせられる。そんな道綱は母のもとに来て、
“おどろおどろしう泣く”(上巻)
というから哀れです。
というか、そういうことがすべて母の日記に書かれてしまうんですから……。