学年2位だと「1位じゃないの?」と怒られる
母親が教育熱心だったのは、自分ができなかったことを投影する思いもあったようだ。
「大人になってから知ったんですが、付属小学校には母の姉の伯母も通っていたんです。母は合格できず、小学生の間もずっと転入試験を受けたけど叶わなかったそうです。そんなコンプレックスのせいか、余計、私に期待したのかもしれません。私から学校生活や友達の話を聞くのが大好きで、もうウザいくらいでしたから」
もうひとつ、母親が過剰な教育を強いていた理由を鈴木さんはこう推測する。
「母からはとにかく『全部の習い事で1位になりなさい』って言われてました。もちろんそんなことはできないんですが、たとえば習字では佳作や金賞でもすごく怒られました。母はガミガミ怒るタイプじゃなく、なんというか、不機嫌になって圧をかけてくるんです。
3年生の時にバトンで西日本エリアの大会に進めなかった時には本気で寝込んでいましたからね。しかも私が『ごめんな』って謝っても、『もう私は死ぬけん』とか小学生の私に言うんですよ。次の日、心配になって小学校の公衆電話から家にいる母に電話をしたことを覚えています。
見かねた伯母が、母に『そんなに全部が全部は無理だよ』って言ってくれてたんですが、自分で経験していない母は勉強の大変さを分かってくれなかった。それでも私にとっては母が世界のすべてでしたから、子供ながらに何とかしなきゃって思ってたんです。今思うと、母は別れた父に対して、『一人でも立派に子育てはできてますよ』って伝えようとしていたのかもしれません。田舎ではバトンとかの小さな大会でも結果が名前入りで新聞に載ったりしますからね」
そのまま中学校に内部進学した鈴木さんは、部活動で全国クラスの強豪だった合唱部に入部する。他の習い事は継続していたが、才能がないと見切りをつけられたのか、一番続けたいと思っていたバトンとバレエをやめさせられ、代わって声楽(オペラ)の教室が習い事に加わった。
ちなみに勉強は期待されたほどの結果は残せていなかったが、学年では中位以上で、英語に関しては学年トップクラス。それでも母親は、英語が学年2位だと「1位じゃないの?」と怒り、1位を取っても「全科目総合では80位? もっと頑張れるんじゃない」と、常に足りない点を指摘され続けたという。