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二次創作文化となぜ化学反応を起こすのか

 実は、コナンの中で恋愛要素がそこまで前面に出ているわけではない。なにしろ1994年刊行の第1巻の第1話で遊園地デートまで行っている工藤新一が毛利蘭に(遠回りな言い回しとは言え)正面切って愛の告白をするのが2010年の第72巻なのである。告白まで16年ですよ。ラブコメだったらぶん殴られてるようなスローペースである。

 登場する個性豊かなキャラクターたちもそうで、それぞれに想う相手や因縁を抱えているのだが、そのキャラクターたちが物語に登場すること自体が稀で、それぞれの抱えるストーリーも新一と蘭の恋のように恐ろしくゆっくりと進むのだ。

 実はこの「多くの魅力的なキャラクターが登場し、そのバックストーリーが明かされるのだが、それらは起承転結の起から承にとどまりその先に進まない」という構造は、二次創作文化、ファンダム文化との化学反応を起こすのだ。それぞれのファンが、魅力的なキャラクターを自分好みに組み合わせ、多元宇宙的な「転・結」を作って楽しめるからである。

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 そして劇場映画では、なかなか登場しない魅力的なキャラクターがメインになり、彼らの物語が少しだけ公式に進む、その息を呑むような瞬間が味わえる。コナン映画の本当の楽しさは、映画を見るだけではわからないのだ。

『名探偵コナン 緋色の弾丸』予告編

 

『名探偵コナン』のアニメは放送1000回を迎え、単行本はこの秋に100巻目が刊行される。それらは小学館の漫画文化、『ドラえもん』や高橋留美子の『るーみっくわーるど』など優れた過去の作品の構造を学び組み入れた、大きな作品宇宙に育っている。学習雑誌から同人誌文化まで組み込んだそのシステムはある種の文化的インフラですらある。

 アメリカンコミックの歴史を昇華させたMCU、マーベルシネマティックユニバースの世界的成功と意義は確かに素晴らしいが、日本の漫画文化の中から育ってきたコナンの作品宇宙、Meitantei Conan Universeもまた、日本が生んだもう一つのMCUとして高く評価されるべきではないかと思うのだ。

 緊急事態宣言の影響で『名探偵コナン 緋色の弾丸』が100億を逃すことになったとしても、コナン・ユニバースはこの危機を乗り越え、必ず次の映画で戻ってくるだろう。劇場映画は、コナン・ユニバースという大きな街の一年に一度のお祭りであり、コナンという大樹の枝に実った果実のようなものだ。1994年から街を作り、苗木を育ててきたクリエイターや声優たち、そして観客たちによって、名探偵コナンは文化としてこの国に力強く深く根を張っているのだから。