拒絶の心理
ヘミングウェイの省略的な文体のもう一つの重要な効果は、心理へのアプローチと関係します。『老人と海』が出版されたのは20世紀の半ばですが、前章でも触れたようにヘミングウェイが作家として活動をはじめたのは20世紀はじめ、欧米ではモダニズムと呼ばれる実験的な芸術運動が起きていました。文学の領域でもさまざまな新しい傾向を持つ作品が書かれており、詩人ではT・S・エリオット、エズラ・パウンド、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ、ウォレス・スティーヴンズ、小説家ではヴァージニア・ウルフ、ジェームズ・ジョイスといった人々が活躍していました。
彼らの作風はそれぞれとても個性的で、一つの理念ではくくれないのですが、多くの作家に共通する特徴として、人間の心の奥をどう表現するかについての深い関心がありました。彼らは19世紀までの文学の作法では現代人の心の動きを表現することができないと考え、さまざまな方法を試していきます。ヘミングウェイもそんな時代の空気をたっぷり吸いました。
多くの部分を描かずにおく氷山理論と、そんな心理へのアプローチには通じるものがあるでしょう。心の動きはそう簡単に言葉にはならない、むしろ描かずにおいたり、ふつうの日常言語とはちがう、複雑な表現を与える必要があるのではないか。エリオットもパウンドもジョイスもウルフも、それぞれのやり方でそうした考えを深めていきますが、ヘミングウェイの作品では、そうした心理が彼の好んで書くストイックでマッチョな人物像に統合され、『老人と海』のような作品世界を生み出すことにつながったと言えるかと思います。
ただ、ヘミングウェイの一つの大きな特徴は、一見マッチョで拒絶的に見える人物や文体が、実際には共感をシャットアウトするわけではなく、むしろそうした拒絶のジェスチャーによって共感を誘う効果を生み出しているということでしょう。『老人と海』でも、寡黙な語りゆえに、人物の心理をおもんぱかったり、探ったりする衝動を促進します。そのあたりは次のセクションで。
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