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ヘミングウェイの「書き方」

『老人と海』にもこうした特徴ははっきりとあります。ただ、この作品の持ち味はそれだけではありません。とりわけ重要なのは、文体でしょう。

 ヘミングウェイは文体論の授業や研究ではもっともとりあげられることの多い作家の一人です。彼の作品を読むと、誰もが「おや。これは…」とその書かれ方に注意を向けたくなる。スムースに読めないからです。簡単な単語が多く構文も比較的わかりやすいはずなのに、読んでいると引っ掛かりがあって、つい「何だろう?」と身を乗り出してしまう。

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 その大きな原因の一つは、省略の多さです。やや比喩的な言い方をすれば「寡黙さ」です。作家自身も言っているように、彼の小説は氷山の一部分だけ(全体の8分の1くらい)を描き、あとは読者に想像させることを狙っているそうです。読んでいる方としては情報がやや足りないので「あれ?」「え?」とたじろぐのですが、このような書き方はかなり意図的なものとのこと。

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 彼はなぜこのような書き方をしたのでしょう。どのような効果がこの文体から生まれるのか。とくに重要なのは緊張感でしょう。ぴりっとした空気が生まれる。微妙に不吉な予感が混じるからかもしれません。人間でも、無口な人というのは相手をどことなく緊張させるもの。あまりに相手が黙っていると、「ひょっとしてご機嫌斜め?」「俺のこと、きらい?」などと思ってしまう。なんか怖いと感じる。ひんやりした空気が流れる。

 よくしゃべりつづける人は――もちろん話し方にもよりますが――こちらの警戒心を緩めてくれます。おそらくガードを解いている感じがこちらにも伝わってくるからでしょう。安心させる。空気もどことなくなごむ。

 ヘミングウェイの文章はしばしば「ハードボイルド」の典型とされてきました。この用語はアメリカ小説を語るものでありながら、日本で特に好んで使われるようで、アメリカやその周辺の文化のある側面に対する日本人の憧れを象徴する語ともなってきました。ちょっと苦み走って、マッチョで、ストイック。まさに『老人と海』のサンチアゴの生き方そのものなのです。その人物描写の土台には文体があったわけです。