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どれかと言われれば「見たい」を選ぶ

――あくまで「笑ってもらえるか」が容姿ネタを続けるかどうかの基準になっているんですね。

ラリー お笑いとアートの決定的な違いは「これが自分たちのやり方だから、好きな人だけ見てください」というのが通用するかどうかということ。アートはそれでも成立するかもしれませんが、お笑いは目の前の人が笑ってくれるかどうかが全てなんです。ある芸人が「自分たちは誰に何と言われようと容姿ネタをやり続けていくんだ」と決めたとしても、お客さんに笑ってもらえなければ、それは芸として成立しているとは言えません。最終目的がお客さんの反応にあるわけですから、お客さんがどう感じるかを気にするのは当然です。

――1人の観客として、ラリーさんが容姿ネタについてのアンケートに答えるとしたら「A.見たい」を選びますか?

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ラリー どれかと言われれば「A.見たい」を選ぶと思います。

――理由を聞かせてください。

ラリー そもそも「容姿ネタ」の定義もはっきりしていませんが、人を傷つけない容姿ネタも存在するでしょう。人を傷つけることが悪いのであって、容姿ネタ全般が悪いとは思いません。だから、見たいか見たくないかと言われれば、面白いものならば見たいと答えます。私は、お笑いという営みは自由であるべきだし、余分な制約は少ない方がいいと思います。人を傷つけないためにお笑いをルールでがんじがらめにしてしまったら、安全にはなるかもしれませんが、健全ではなくなってしまうでしょう。

――安全なお笑い、健全なお笑いの違いは何でしょう?

ラリー アメリカでは、黒人のスタンダップコメディアンが、自分自身が差別された経験などを笑いのネタにすることがあります。黒人差別は深刻な社会問題であり、それをネタにされること自体を不愉快に感じる人もいるかもしれません。しかし、そこで「黒人差別に関するネタは禁止」というルールができてしまったら、そのことで傷つく人は減るかもしれませんが、黒人差別についてカジュアルに語れる機会もなくなってしまいます。それよりも、深刻な問題でも笑いを交えて自由に語れる方が、風通しの良い健全な社会だと言えるのではないでしょうか。

「容姿ネタが不快」は誉め言葉?

――それは、容姿ネタについても同じだということでしょうか。

ラリー 本質的には同じだと思います。現実には容姿で人が差別されるようなことがあるのに、お笑いのネタの中では一切それが存在しないかのように振る舞わなければいけないのだとすれば、その方が不自然だし不健全でしょう。

 たとえば、渡辺直美さんは今でこそ多様性のアイコン的な存在になりましたが、彼女は自分が太っていることを武器にして、ポジティブな形でネタにし続けてきた人でもあります。体重自体はデビュー当時から40キロ近く増えていますが、その体型を馬鹿にされないような地位を築いたわけです。

渡辺直美 ©AFLO

――むしろ積極的に容姿に触れていくことで突き抜けるということですね。

ラリー アインシュタインの稲田直樹さんの顔を初めて見た人の中には「顔のことに触れていいのかな……」と不安になる人もいるかもしれません。その意味では、芸人仲間が稲田さんの容姿をネタにしてイジるのは、見る側のモヤモヤを解消しているという側面もあるのです。

アインシュタインの稲田直樹 ©AFLO

――ただアンケートでは、そのイジりを不快に思う人が多いことが表れた結果になりました。

ラリー  感性なので個人差はあると思いますが、容姿ネタだから不快に感じるというよりも、笑えなかったから結果的に不快に感じる、という人が多いのではないでしょうか。よくできた容姿ネタを見た場合、多くの人はそれが容姿ネタであることを意識せずに笑っているのではないかと思います。

 それに、変な言い方ですが、芸人にとって「容姿ネタが不快」と言われるのってある意味では褒め言葉だと思うんですよ。