生保、電器屋、証券会社…、次々と出てくる契約と買物の痕跡
散らばっている名刺を見る。銀行、保険の代理店、便利屋その他。鉛筆で日付が殴り書きされているものもある。おそらく「来てくれた」日なのだろう。ピアノの蓋の上に積まれている郵便物を見て合点がいった。数社の証券会社や生保から「ご契約情報のお知らせ」が何通も届いていた。
「この人、夏に汗びっしょりかいて、自転車で来たんだよ」
中堅どころの証券会社の名刺を叩いて言う。「そういうの、追い返せないでしょう」
父は退職金を母に1円も渡さなかった。念願のゴルフ会員権を買って、あとは貸金庫に入れていた。わたしたち家族は、旅行どころか休日にファミレスで食事をしたことすらない。
けれど汗だくでやってきた見ず知らずの営業マンに、父は100万円分をぽんと出していた。電器屋が勧める通りに家電を買い、親戚には何度も送金していた。
80になって、父は人を求める人になっていた。お金を、人と繋がる手段として使うようになっていたのだ。
ひとつふたつ打ち明けたら気が楽になったのか、某メガバンクの名刺をつまみ「この人はさあ、何度も来てくれて、お酒が好きで」と笑いながら話し出した。
「え、うちで飲んだの?」「いい若者だよ」
その「いい若者」が父に勧めたのが、豪ドル建ての終身保険だった。払込保険料は900万円、契約時のレートは1豪ドル96.27円。先のことは分からないとはいえ、なんて「安い」ときに契約したのだろうと、苦々しい気持ちと腹立たしさが同時に湧いてくる。
「いい若者」が勤める銀行の支店へ行ってみた
「いい若者」はもうひとつ、系列の証券会社の口座も開かせていた。100万円分つぎ込まれていた。父に株の知識があったとは思えない。自転車の営業マンにいい顔をしたのと同様、これも言われるがままに買ったのに違いない。
銀行に電話をした。担当者が替わりました、と若い女性の声が言った。保険の件で相談がしたいと告げ、予約を取って「いい若者」がいた支店へ足を運んだ。
応対してくれたのは筆者と同い年くらいの女性だった。父が契約したことはもう仕方がないと思っているが、高齢者が高額の保険の契約をする際に、家族の承諾を得るようなルールはないんでしょうか? と尋ねてみた。
保険証券をあらため「……たしかに、この場合はご家族の承認を得たほうがよかったと思います」と女性は言った。「でも、すぐにご入用というわけではないのなら、このままお持ちになられたほうがいいです」
とても感じのいい女性だった。尻拭い的なことは、こういう親身な雰囲気の女性に担当させているのかもしれない。うまいよねえと思ってしまった。すみませんと言わずに申し訳なさを醸す女性の技術は、すばらしかった。