30歳の時に尾崎興業を立ち上げて手形の割引など裏金融を手掛けるようになる。ある時、乱発された手形の回収をきっかけとして代議士と親密になり、「同和は金になる」と教えられた。
当時、国は同和への差別を救済するために巨額の同和対策事業費を投じ始めていた。道路などのインフラ整備、公営住宅の建設、保育所や斎場の設置まで、その事業費の差配に食い込めば金になる。
また、経済成長により全国各地で開発が加速していたが、障害となっていたのは、農地指定されれば建物は建てられないなど土地に対する様々な規制だった。規制が解除されれば地価は跳ね上がる。たとえば尾崎は規制のかかった二束三文の土地を買収し、「同和に家を建てさせないつもりか!」と役人を恫喝して規制を解除させ、その土地を売ってしまうのだ。
尾崎は手形回収をめぐる脅迫で逮捕された後に高知県に戻り、利権に食い込んでいく。公共事業を受注したゼネコンを恐喝した容疑で逮捕され、執行猶予付き有罪判決が下ると、上京して、83年に「日本同和清光会」を設立した。政治家に取り入り、暴力団を後ろ盾にして、中央省庁の官僚や自治体の役人を恫喝し、農地の転用許可取り付け、国有地の払い下げまで手を広げていく。
「得意だった手口のうちの1つが、住宅を建てられない『市街化調整区域』の指定を解除させることでした。容積率だって緩和できた。開発業者が尾崎を頼り、報酬を持ってくるのです。尾崎自身も、千葉県の印旛沼での開発や東京郊外での大規模な霊園建設を進めようとしました」(コンサルタント)
市役所では、ステッキでガラス板を叩き割り…
コンサルタントの目に映る尾崎はメチャクチャだった。
西日本のある市役所に行った時、尾崎は窓口で市長を呼び出して不在を知ると、持参したステッキで机上に敷かれたガラス板を叩き割り、「同和を差別するんか!」と怒り出したという。
また、キャデラックリムジンには車内電話が4つ設置されていたが、尾崎は中央省庁の官僚に電話し、「局長さん、お世話になってます、尾崎です、……あっ、電話です、すんません」と断っては、別の電話に出て「おんどりゃあ、いてまうぞ!」と、官僚に聞こえよがしに怒り出す。その電話を切ると、「ややこしい奴もおりまして、局長さんみたいな人やったらいいんやけど」と官僚を間接的に恫喝する。