昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

未解決事件を追う

2021/05/07

電話1本で飛行機の出発を遅らせる力があった

 羽田空港に向かっている道中では、高速道路が渋滞して平和島あたりで搭乗時刻に間に合わないと分かった時、車内から航空会社に電話し、一言、「尾崎、平和島」と発する。すると、航空会社は飛行機の出発を遅らせていた。女たちを連れて四国へ行ったその帰り、一行が乗った飛行機が滑走路に出ようとした時、連れの女が空港の土産屋に忘れ物をしたことに気づいた尾崎は、乗務員を呼び出して飛行機を停め、忘れ物を取りに行かせたという。

 83年、尾崎は大々的に誕生パーティを開いた。別のホテルで田中角栄がパーティを開くことを知った上で、敢えて同じ日にぶつけたのだ。政治家と中央省庁の役人はほぼすべて尾崎のパーティに出席した。それが自慢で、パーティを撮影したビデオを配っていたという。

「役人に対する恫喝はとにかく迫力がありましたが、一方で暴力団には平身低頭でした。その演技力は笑えるほどでした」(コンサルタント)

金を貸したのは暴力団だけではなかった

 尾崎は湯水のごとく金を使ったが、原資は暴力団からの借金だった。ある暴力団総長と、後に“バブルの帝王”と呼ばれる地上げ屋と組んだ拠点には金貸しが列を成した。尾崎らは10%の金利を付けて手形を振り出し、集まった現金を親密だった相互銀行(第2地銀)に持ち込んで前に借りた手形を決済する。これを繰り返した。

「ただ、尾崎が死んだ時に借金は100億とも200億とも言われましたが、実際に動いたのはもっと少ないでしょう。賭場の『口掛け』(口頭で金を張ること)と同様に、規制の解除や開発に成功すればン億円と口約束して、それがそのまま借金に化けたことも多かったようです」(コンサルタント)

 金を貸したのは暴力団だけではなかった。後の国会で安全信用組合の乱脈融資が追及された時、尾崎の名前が出たのだ。

 安全信組に東京都庁の課長から呼び出しがかかり、専務が出向くと、部長が出てきて尾崎への融資を要請されたのだという。尾崎の会社はまともな事業計画がなく、とても融資できる先ではなかったが、安全信組の当時の理事長は国会で、「面倒見てやってくれないかというような強い要請があったものですから、私どもとしては、監督官庁からの強い要請ですから、(融資を)させていただきました」と証言した。