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何の心配もなく「了解」を使うことは、もはや不可能に

 かつて、「了解」が失礼とされていった、「了解しましたの悲劇」がありました。経緯を振り返ってみましょう。

・2010年以前は「了解は失礼」という認識はほとんどなかった

 

・2010年代になって、メールの書き方やビジネスマナーの本で、「了解」よりも「承知」のほうが丁寧だという説が繰り返し説かれ始めた

 

・数多くのwebメディアが「目新しくてインパクトの強い話」として、その説をしたり顔で説いた。やがてテレビ番組でも取り上げられて、だんだん“常識”になっていった

 

・ビジネスマナーを伝える講座でも、社会人の基本的なマナーとして伝えられた。やがて「了解」を使うことは、上司に叱責されたり取引先を怒らせたりする行為となった

 

・ただし「了解」が失礼という説は、2010年前後に急に出てきたわけではなく、1970~1980年代の本でも見ることができる

 国語辞典編纂者の飯間浩明さんも「了解」への迫害が進む風潮に対して、2016年6月12日に〈「了解いたしました」は失礼なことばではない〉と題した反論をTwitterにアップし、大きな話題となりました。

〈「了解いたしました」と「いたしました」が入っていれば、敬語としては十分〉

〈自分が好みでない表現は使わなくていい。でも、使っている人に対して腹を立てるのは可哀想。〉

 このtweetは「承知のまん延」に違和感を覚えている「了解でいいじゃないか派」の人々に、大きな勇気と希望を与えました。

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 しかし、言葉が厄介なのは、自分は「失礼ではない」と思って使っても、相手が「失礼」と受け取ったら、十分すぎるほどの不利益を被ってしまうところ。「いや、じつは失礼じゃないんですよ」と説明するチャンスはないし、仮に説明したとしても怒っている相手を余計に怒らせるだけでしょう。

 今や「了解」は、たとえ「了解いたしました」と丁寧に言ったとしても、大きなリスクをはらんだ表現になってしまいました。ややくだけた「了解しました」も、丁寧さにおいては「承知しました」と同等のはずなのに、高い確率で失礼な言葉と取られそうです。

 残念ながら、もはや手遅れ。よっぽどのことがない限り、心晴れやかに「了解」を使える日は、二度と戻ってこないでしょう。

 すでに起きてしまった「了解しましたの悲劇」は、後世に長く語り継いでいきたいものです。

©️iStock.com

「とり急ぎお礼までの悲劇」を進行させているのは誰か

 今まさに進行中である「とり急ぎお礼までの悲劇」も、燃え広がっていく構図は「了解しましたの悲劇」とほぼ同じです。

「目上の人に『了解』は失礼で、正しくは『承知』である」という“常識”が広がったことで、誰が幸せになったのか。とくに誰も幸せになっていません。むしろ、理不尽な叱責を受ける人が続出するなど、多くの不幸と恨みを生み出しただけでした。

 いや、そうでもないか。少し幸せになった人もいました。それは、目新しい知識を振りかざして「『了解』は間違っている!」「キミはマナーがなっていない!」と、鼻の穴をふくらませて大きな顔ができた人たちです。人間は常に「遠慮なくマウントを取れる口実」を探している生き物。広まっている“常識”を後ろ盾にして、部下や後輩を指導したり、取引先の担当者を無礼だと批判するのは、さぞ気持ちがいいでしょう。