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 もちろん「もっと丁寧な言い方」はあります。しかし、とくにメールにおいては、簡潔に要件を伝えるというのもひとつの「正しさ」。また、相手の使う表現にいちいちケチをつけずに大らかに受け止めるというのも、人として大切な「正しさ」です。念入りに丁寧な表現を使うという「正しさ」だけを優先するのは、バランスの取れた判断とは言えません。

「とり急ぎお礼まで」がTwitter上で話題になったのを受けて、またもや国語辞典編纂者の飯間浩明さんが、ひじょうに心強いtweetをしてくださっています。

〈「取り急ぎお礼まで」というメールの結びは失礼という意見について。私も、失礼というのは可哀相だな、と思います。「略儀ながらメールにてお礼申し上げます」がよりよいとする意見の理由は、「~ます」と言い切る形だからでしょうか。でも、丁寧な礼状でも「取り急ぎお礼まで」は常用されます。〉(2021年4月27日午前8時41分)

 このtweetに続けて、自分が受け取ったメールで、いろいろな立場の人が「取り急ぎお礼まで」を使っているが、そのことに違和感を持ったことはなく、これで十分だと述べています。さらに渋沢栄一に宛てた年下の人物からの手紙や、夏目漱石が出した手紙文にも、現在の「取り急ぎお礼まで」に近い表現が使われていることを紹介。〈現在に話を戻すと、普通の社交上のメールでは「取り急ぎお礼まで」で十分でしょう。〉と結論付けています。

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「了解」の問題に続いて、大きな勇気と希望を授かりました。もちろん「言葉のプロ中のプロである飯間さんの意見だから自動的に正しい」とは言えません。しかし、「とり急ぎお礼までは失礼だ」という意見に素直に従う必要はないと胸を張る根拠には、十分になります。また、「とり急ぎお礼まで」と書かれたメールを受け取ったときに、「失礼だな」とマウンティングを取りたくなる誘惑を振り払う力にもなってくれるでしょう。

人に優しく自分にも優しく

「とり急ぎお礼までの悲劇」を食い止めるために大切なのは、自分のやり方や感覚と違う表現を見かけても、いちいち目くじらを立てない寛容さを多くの人が持つこと。ムキになって「それは失礼だ!」と言うほうが失礼なんだという認識が広がること。そして、もっともらしい説の威を借りて威張っている人に冷たい目が向けられるようになること。 

©️iStock.com

 私たちは日々、大きな力に流されがちだし、時々の風潮に自分を合わせがちだし、スキあらばマウンティングしたい誘惑にも溺れがちです。「とり急ぎお礼までの悲劇」を防ぎたいと決意することは、自分の頭で考え、自分の足で歩く人生を送るための、そして人に優しく自分にも優しくできる人間になるための第一歩と言っても過言ではありません。長い記事を最後までお読みいただいて恐縮です。とり急ぎお礼まで。