私たちは今、大きなピンチを迎えています。このままだとメールの締めに「とり急ぎお礼まで」と書くと、「マナー違反」「常識知らず」のレッテルを貼られる世の中になりかねません。

 先月下旬、旧知の同業者のtweetで「目上の人に送るメールで、とり急ぎお礼までと書くのは失礼」とするtweetが話題になっていることを知り、反射的に書いた呟きが、自分としては経験したことがない数の「いいね」やリツイートをもらいました。

〈言葉のマナー界隈では、かつて「了解しましたの悲劇」がありました。誰かが「『了解』は間違いで『承知』が正しい」と言い出して、その適当な説が広まってしまったのです。今また「とり急ぎお礼までの悲劇」が起きようとしています。火種が小さいうちに消し止めなければ! とり急ぎ決意表明まで。〉

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「とり急ぎお礼まで」を迫害して誰が幸せになれるのか

 あらためて感じたのが、言葉のマナーをめぐる問題への関心の高さ。寄せられたコメントからは、言葉の「マナー違反」を指摘された経験がある人の多さや、指摘した相手への恨みの深さがうかがえます。

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 たしかに、言葉のマナーは大切です。上司や先輩に頼みごとをするときに、「おい、お前。これやっとけ」と言ったら、確実に大騒ぎになるでしょう。「いえ、心の中では思いっ切り尊敬の念を抱いているんです」と主張しても、何の説得力もありません。

 しかし、目上の人へのメールの締めに「とり急ぎお礼まで」と書くのは失礼だという説が広まることで、どんないいことがあるのか。「略儀ではございますが、まずはメールにてお礼申し上げます」と書いたほうが丁寧だと知っておくのはいいとして、「そう書かないのはマナー違反だ! ケシカラン!」と憤慨する人が増えるのは、はたして素敵な世の中と言えるのか。メールを受け取る目上の人は、そうされたほうが嬉しいのか。

 想像すればするほど、誰も幸せにならない未来しか見えてきません。しかし、あろうことか「マナーに敏感な界隈」では、すでに「とり急ぎお礼まで=マナー違反」が“常識”となりつつあります。

 いったん“常識”が定着してしまうと、あらがうのは容易ではありません。火を消すなら、まだ大きく燃え広がっていない今が最後のチャンス。まずは、なぜ異を唱えるのか、何に対して異を唱えるのかをはっきりさせておく必要があります。