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それでも語る理由

 スピークアウトしないという選択もあるけれど、私にとって話すことは重要な経験になっていった。

 講演に呼ばれると、主催者などからとても申し訳なさそうに、

「本当に言いにくいことを話していただいて……」

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 と言われることがある。

 そう言われるたびに、叫びだしそうになる。

「私は、あなたたちと少しも変わらない! これは私の傷じゃない! 言いにくい恥ずかしいことを話しに来たわけじゃない」と。

 でも、はたと気づく。

 その傷ゆえに呼ばれているのではないか。誰も話したがらない、傷ついた恥ずかしい経験を語ることを求められているのではないか。

 頭は混乱し、困惑した私は沈黙のうちに曖昧に微笑むことしかできない……。

 それでも語り続けるのはなぜだろう。

 講演後に次のような質問を受けることもある。

「なぜ、語りにくいご自分の経験を話されているのですか?」

「どうして、話すことにしたのですか?」

 そのたびに、

「私の経験を聞いた人が、理解を深めてくれればと思って」

「自分の経験を隠して話すことは、聞いてくれる人に対して誠実ではないと感じたから」

「こういう問題があると知ってほしいから」

 と伝えてきた。

 どれも間違いではないけれど、少しずつ違っていたと今は思う。

訴えていいということも、訴える方法も知らなかった

「どうして語っているのか?」と聞かれるたびに、13歳から始まったあの夜に引き戻される。

 誰も止めてくれなかったし、誰も助けてくれなかった私の経験。

 訴えていないのだから、告発していないのだから、助けてもらえなかったのは当然だと思われるだろう。

 でも、私は思っていた。

「こんなことはやめて」「こんなことは間違っている」「こんなことは許されない」と。

写真はイメージ ©️iStock.com

 子どもで、無知で、訴えていいということも、訴える方法も知らなかった。

 行為の意味を理解できず、それを伝える言葉もなく、伝えられなかった。

 話すことは、私は決してその行為を受け入れていなかったと伝えること、その行為がどのような傷を残すのかを訴えることにつながる。