一般には知られていない中堅ゼネコンの社長にもかかわらず、永田町では知らぬ者のいない有名人だった男が、2020年12月17日に帰らぬ人となった。その男の名前は水谷功。小沢一郎事務所の腹心に次々と有罪判決が下された「陸山会事件」をはじめ、数々の“政治とカネ”問題の中心にいた平成の政商だ。
彼はいったいどのようにして、それほどまでの地位を築き上げたのか。ノンフィクション作家、森功氏の著書『泥のカネ 裏金王・水谷功と権力者の饗宴』(文春文庫)より、芸能界でも幅を利かせていた男の知られざる正体に迫る。(全2回の2回目/前編を読む)
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北川正恭と秘書の仲たがい
「俺を野良犬にするつもりですか。それとも、これからも鎖で留めておきますか。どっちにしますか。返答次第では、考えがあります」
北川正恭に対し、秘書の森岡一智が詰め寄った。1995(平成7)年4月の三重県知事選の半年ほど前のことだという。代議士から知事への転身を決めた北川に対し、森岡は知事選出馬に反対してきた。やがて2人は仲たがいし、決裂する。森岡が北川に言った。
「もともと自民党を割って出るのも反対でしたんや。うまく行きっこないから。いままで泥をかぶって来たんは俺やないか。それで三重県知事になるからクビ、では通りませんで」
三重県桑名市出身の国会議員、山本幸雄の秘書だった森岡は、90年の山本の引退にともない、北川の秘書となる。山本の地盤を引き継いだのは、のちに自民党から新生党・新進党を経て民主党に移った岡田克也だが、森岡はそりが合わず、北川を選んだ。
森岡が新たに仕えた北川正恭は1944(昭和19)年11月11日、三重県鈴鹿市に生まれた。83年の総選挙で、自民党公認を得て県議から初当選する。自民党時代は三塚博が率いていた派閥、清和会に所属した。それが縁で、同じ派閥の鹿野道彦を党首に担いで94年に自民党を離党し、新党みらいを結党する。だが、党運営がうまくいかず、すぐに新進党に合流した。
そして95年、三重県知事選に立候補する。北川の知事転出は、岡田克也の勧めでもあった。森岡にとって岡田は、かつて事務所入りを蹴った相手という因縁もある。
「もともと俺は、国会議員の第一秘書としてうちに来てくれ、と(北川から)頼まれたんや。そして、東京でカネ集めをしてきたはずです。そのせいで借金もずい分残っている。知事になってそれが返せるんですか」
森岡は北川に迫った。しかし、本人の決意は変わらない。森岡はたたみかけた。
「それなら、俺が生活できるようにしてからにしてもらえんやろか。そうでないと何をしゃべるかわかりませんで」
そうして飛び出したのが「俺を野良犬にするつもりか」という過激な発言だという。水谷建設の取引先をはじめ、複数の関係者の証言をもとに再現した掛けあいだ。仮にも秘書が雇い主の代議士に対し、ここまで言うのは聞いたことがない。まさに脅しているかのようなやり取りなのである。2人のあいだで何があったのか。