一般には知られていない中堅ゼネコンの社長にもかかわらず、永田町では知らぬ者のいない有名人だった男が、2020年12月17日に帰らぬ人となった。その男の名前は水谷功。小沢一郎事務所の腹心に次々と有罪判決が下された「陸山会事件」をはじめ、数々の“政治とカネ”問題の中心にいた平成の政商だ。
彼はいったいどのようにして、それほどまでの地位を築き上げたのか。ノンフィクション作家、森功氏の著書『泥のカネ 裏金王・水谷功と権力者の饗宴』(文春文庫)より、芸能界でも幅を利かせていた男の知られざる正体に迫る。(全2回の1回目/後編を読む)
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秋田県知事と小沢秘書の蜜月
水谷建設と小沢サイドの裏献金工作の手はじめは、ダム本体建設に先立って発注される基礎掘削工事だった。準大手ゼネコンの元東北支店幹部が当時を振り返る。
「胆沢ダムの工事発注は、運悪く共産党がダム工事の談合資料を暴露した直後のことでした。それで、国交省が従来の入札のやり方を見直したのです。これまでのダム工事は、基礎工事からダムに使う砂利を砕く原石山工事にいたるまで、本体工事をする大手ゼネコンが一括受注してきた。それが分割発注され、複数の大手、準大手ゼネコンで工事を分け合うようになったのです。胆沢ダム工事の発注は、5回に分けられました。ただし水谷のような下請けのサブコンは別。基礎工事から参加していないと、本体工事が発注されても受注できない。つまりはじめが肝心でした。だから、水谷はまず基礎工事の受注に奔走したわけです」
03年1月に予定された入札を前に、水谷建設はこの基礎掘削工事に食い込もうと工作する。そのため胆沢ダム工事全体の仕切り役へ近づかなければならない。談合のボスが鹿島建設東北支店幹部であり、その後ろに控えているのが小沢事務所だ。
「大手、準大手のゼネコンには、それぞれ決まった下請けがあります。本来、水谷建設は前田建設の下請けが多く、仕切り役の鹿島とはそれほど近くなかった。基礎工事を受注するにしても、まずは鹿島の東北支店幹部の了解を得なければならない。それで水谷会長が鹿島の東北支店幹部に話を持ちかけたのです」
前出の水谷建設の元首脳が明かす。
「すると、その東北支店幹部は『東京で話し合いをしよう』という。その話し合いに参加したのが、小沢さんの秘書から衆院議員になった高橋嘉信さんです。高橋さんはこのときすでに代議士でしたけど、小沢さんの名代としてゼネコン業界に睨みを利かせてきた。三者会談は、東京のすっぽん料理屋『さくま』でおこなわれました。そこで高橋さんは『(秋田県の業者)創和を孫請けに使うなら水谷でOKだ』という。それで話がまとまりました」
問題の三者会談は、02年10月の出来事である。それから年が明けた03年1月、胆沢ダムの基礎掘削工事の入札がおこなわれる。
当初国交省は、胆沢ダムの基礎掘削工事について、予定価格を72億8240万円と見込んでいた。それに対し、契約額72億4500万円で前田建設工業が落札する。水谷建設は前田建設のために動いたことにもなるが、前田建設が基礎工事を受注できれば自動的に水谷建設に仕事がまわってくる。まさに談合の末の工事落札といえる。事実、元請けの前田建設から指名された水谷建設が一次下請けとして、工事に参加できた。そして、さらに高橋の指示どおり、秋田県の建設業者「創和建設」が二次下請け、元請けから見たいわゆる孫請けとして、工事に参加するのである。
この創和建設は、地元で小沢事務所に連なる建設会社と見られてきた。元はといえば、1964年、秋田県横手市の素封家、寺田家により創業された建設会社だ。その寺田家の入り婿である元秋田県知事の寺田典城が、67年から91年2月まで社長を務めてきた。
寺田はそこから横手市長に転身し、97年4月に秋田県知事になる。小沢一郎の政治とカネ問題で揺れた最中の09年4月に知事を退任するが、この間、建設会社は急成長してきた。のちの立憲民主党衆議院議員で、事業仕分けで名をあげた寺田学は典城の次男である。