北川正恭が触れられたくない過去
「このとき北川さんに頼まれ、森岡の面倒をみることになったのが、水谷会長でした。いわば秘書を辞めるに当たって、口止め料を水谷会長が肩代わりしたようなものだと思います」
森岡のことをよく知る水谷建設の関係者の1人がそう打ち明ける。森岡自身、かつて常に水谷功のカジノツアーに同行し、裏金の運び屋まで務めてきた。水谷ファミリーのなかでも、最側近に近い存在だったといえる。それだけに、彼を知る水谷建設の関係者も少なくない。
知事時代の北川正恭は、岩手県の増田寛也や宮城県の浅野史郎、高知県の橋本大二郎、東京都の石原慎太郎らとともに地方分権の旗手として、持て囃されてきた。中部電力による芦浜原子力発電所の建設計画を白紙に戻す一方、シャープの亀山液晶工場を誘致し、話題をさらう。選挙時における政権公約「マニフェスト」の必要性を訴え、日本の政党に採用させた。目下、テレビコメンテーターとして活躍している。そんなクリーンイメージを売り物にする北川にとって、水谷との関係は触れられたくない過去に違いない。
口止め料の深層
「森岡氏は汚れ役だけに、秘書としては有能やでな。とくにカネ集めは得意やからね。自民党時代の北川さんのために、家賃の高い永田町の十全ビルに事務所を借りた。北川さんはそこで、月に二度ほど、自民党清和会の若手代議士を24、5人集めて勉強会をしていました。だから新党みらいを旗揚げするときに本人は、最低でも15人ほど集まるのではないか、と踏んどったと思うよ。でもふたを開けてみたら、実際に自民を離党したんは5人だけやでな。完全にあてが外れてもうた。それで、今度は三重県知事選挙の話やさかい、森岡氏が反対するんも、無理ないんやないか」
森岡を知る別の水谷功の側近は、こう語る。北川が自民党を離れたのは94年4月。知事選は1年後の95年4月におこなわれた。