65歳以上の人口の割合が全人口の21%以上を占める「超高齢社会」に突入した日本。当然のことながら、介護を必要とする「要介護高齢者」の数も増加し、誰もが「介護」と無縁でいられない時代になったといっても過言ではない。
そんな介護の厳しい現実について、赤裸々かつ哀愁を交えて描かれた一冊が科学ジャーナリストの松浦晋也氏による『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)だ。論理的な世界で働き続けてきた筆者は、親の介護にどのように向き合ったのだろうか。同書の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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果てなき介護に疲れ、ついに母に手を上げた日
衰える足腰、量が増える失禁、度重なるトイレでの排便の失敗─老衰とアルツハイマー病の両方の進行により、2016年の秋の母は弱り、ますます介護に手間がかかるようになっていった。10月に入ると、これらに加えて過食も再発した。
いつも午後6時頃に夕食を出すようにしていたのだが、少しでも遅れると台所をあさり、買い置きの冷凍食品を散らかすのだ。「お腹が空いてお腹が空いて、いてもたってもいられない。御飯を作ってくれないあんたが悪い」─食欲は原始的かつ根源的な欲求ということなのだろう。何度言っても、懇願しても怒っても止まらなかった。
自分が壊れる時は、必ず前兆がある。
今回の場合、前兆は、「目の前であれこれやらかす母を殴ることができれば、さぞかし爽快な気分になるだろう」という想念となって現れた。理性では絶対にやってはならないことだと分かっている。背中も曲がり、脚もおぼつかず、転んだだけで骨折や脱臼する母を私が本気で殴ろうものなら、普通の怪我では済まない。殴ったことで母が死んでしまえば、それは殺人であり、即自分の破滅でもある。が、理性とは別のところで、脳内の空想は広がっていく。
簡単だ。
拳を握り、腕を振り上げ、振り下ろすだけだ。
それだけでお前は、爽快な気分になることができる。
なぜためらう。ここまでさんざんな目に遭わせてくれた生き物に、制裁の鉄槌を落とすだけではないか。握る、振りかざす、振りまわす─それだけで、お前は今感じている重苦しい重圧を振り払い、笑うことができるのだぞ。
悪魔のささやきという言葉があるが、このような精神状態の場合、間違いなく悪魔とは自分だ。そのささやきは、ストレスで精神がきしむ音なのだ。