実家に母と同居しながら、気ままな独身生活がこの先も続くと信じていた科学ジャーナリストの松浦晋也氏。しかし、母親が認知症を患ったことで、それまでの生活は一変する。自身を認知症だと認められない母、進行する症状、崩壊する介護態勢……。感情よりも理屈で考えたくなる性格だと自認する松浦氏は、こうした事態をどのように乗り越えたのだろう。
ここでは同氏の著書『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)の一部を抜粋。「敗退、戦線再構築、また敗退の連続だった」と振り返る奮闘の日々を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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「自分の母を介護します」と、Kさんが退職
ショックな出来事が起きた。ここまで1年以上にわたってヘルパーを務めてくれたKさんが、2016年7月末でヘルパーを退職することになったのだ。Kさんのお母さんの認知症が進行してきたので、実家に戻って本格的に介護するとのこと。「これまで、仕事としてずいぶんとお年寄りの介護をしてきましたが、今度は自分の母親を介護する番なんですよ」と言う。
Kさんは、主力となってくれた3人のヘルパーさんの中では、一番の話し好きだった。よく母に話しかけ、母もKさんとの会話を楽しんでいた。明るく屈託のない人で、Kさんが来てくれたおかげで、私はずいぶんと助けられた。
Kさんは、若い時に、テレビアニメーション制作の現場で働いていた。その頃の思い出話も面白かった。テレビアニメ史上に残る傑作「アルプスの少女ハイジ」(1974年)では、作品制作の指揮を執る高畑勲氏を間近で見ていたという。「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968年)、「火垂るの墓」(1988年)、「かぐや姫の物語」(2013年)などの、あの高畑勲監督である。
「何が恐ろしいって、ハイジを作っていた頃一番怖かったのは、高畑さんがぼそっと言う『これ、全部作り直そう』というリテイクの一言でした。もうスタッフ全員が戦々恐々としていましたよ。“高畑さんっ、やめてっ。その一言だけは言わないで!”って」
最後のヘルパー勤務の日、Kさんには花束を贈呈して労をねぎらった。
連絡先を交換しておいたところ、数カ月後にメールが届いた。
「自分の母の介護は今までと勝手が違って苦労しています」ということだった。
Kさんほどの経験豊富なベテランのヘルパーであっても、肉親の介護となると苦労するのだ。家族が主体となって老人の介護を行うことの難しさを、私は改めて実感した。
トラブル続出、全面崩壊へ
Kさんがいなくなった穴は、なかなか埋まらなかった。何人かのヘルパーさんが交代で入ってくれるようになったが、いきなり知らない人が何人も家に入ることに、まず、母は拒否反応を示した。「あなた誰。どうしてここにいるの」から始まって、「あなたの作る御飯はまずい。こんなもの食べられない」まで─ヘルパーさんに怒りを向け、まるで3月にメマリー(編集部注:アルツハイマー型認知症の症状進行を抑制する薬)を服用し始める前に戻ったかのようだった。