「こんな時にも警察を信じるんだ…そんなもんなんだ」
「この人らは信じひんへんな。前から折り合い良くないけど、こんな時にも警察を信じるんだ。そんなもんなんだ。そう思ったわ」
「私はやってない!」と訴える惠子さんに、平造さんは「やってないのになんで自白するんや。自白せんかったらよかったんや。説明せいや」と迫った。
惠子さんは語る。
「初めから私の言うこと聞こうという形ならいいけど、警察を信じてるからね。言っても仕方ない、もういいわ、と思ったわ。警察の取り調べのことは、受けた人にしかわからないのよ。自分自身わけわからないのに刑事からボンボン言われてパニック状態だったんだから」
そんな惠子さんにとってさらに耐えがたいことが起きた。何回目かの面会で両親が、一人残された息子の聡ちゃん(仮名・当時8歳)を養子に出そうという話を持ってきたのだ。惠子さんは思わず叫んだという。
「私は火事でめぐちゃん(娘のめぐみさん)を失ったのよ。この上、聡ちゃんまで私から奪おうって言うの!?」
頭にきて面会を拒否、親子断絶
それ以後、惠子さんは両親との面会を拒否した。
「こんな親、もういいわ。頭にきてるから、親のことなんか考えるもんかって。もう考えない、と思ったわ」
平造さんも反発した。
「面会行ったら断られてな、腹を立てたわ」
かくて親子は断絶した。母の章子さんはどうしていたのか? 惠子さんは語る。
「母親は父親に何も言えないわ。父の言うことに逆らわないタイプだから」
火事から4年後の1999年、一審大阪地裁で惠子さんに無期懲役の判決が出る。平造さんは「やっぱり警察の言う通りや」と感じたという。
そんな親子関係に変化が現れたのは2000年代に入り控訴審の判決が近づいてからだという。この頃、無実を訴える惠子さんに対し、日本国民救援会が支援を始めた。冤罪ではないかと思われる人たちを支援する全国組織の人権団体だ。ところが肝心の両親が無実を信じていない。そこで国民救援会大阪府本部の副会長、伊賀カズミさんが、平造さん夫妻の元に通って丁寧に説明を繰り返した。