幕府の為替御用に
幕府も各藩から上納金を集める際、この貨幣制度の違いに困っていました。全国の各藩から年貢米や産物が集まってくるのは天下の台所大坂。そこでは銀貨で売買されます。それを金貨に両替し、江戸まで数十日かけて現金輸送していたからです。コストもかかるし、盗難の危険もあります。
この幕府のお金の流れは、越後屋のお金の流れとちょうど逆でした。これに目をつけた高利は、自ら幕府に「公金為替」の仕組みを提案します。「公金為替」とは、越後屋が、「幕府の大坂御用金蔵から公金を銀貨で預かり、60日後(のちに90日後)、江戸の御金奉行に金貨で納付する」というもの。この提案は幕府にとってもメリットが大きかったため採用に至ったのです。越後屋は「大坂御金蔵銀御為替御用(おおさかごきんぞうぎんおかわせごよう)」となり、大坂高麗橋(こうらいばし)にも両替店と呉服店を開業することになります。公金為替自体の利幅はわずかでも、巨額の公金を数カ月間無利子で運用できるメリットは大きいものでした。また、京の仕入れは大坂で受け取った銀貨を使い、江戸での納付は店での売上金から行なえることから、現金を運ぶ必要もなくなり莫大なコスト削減に繫がったのです。
【6】自分の死後にもイノベーションを
高利は、自らの亡きあとも三井家の繁栄が続くよう様々な手を打ちました。72歳の時、自分の寿命が長くないという思いから、家法を考え、その腹案を子供に示します。彼らと合議して最終決定を下し、『宗寿居士古遺言』にしました。
その根本は「一家一本、身上一致」。財産を分割して相続させることをせず、事業体と資本を兄弟の共有財産として一族で経営。それぞれの家が、毎年事業上の利益から定率の配当を受け取る仕組みにしました。要は、誰かひとりに家督を継がせるのではなく、兄弟一致して「三井家」という事業を永続させるようにと考えたのです。嫡男のみが事業を継ぐことが一般的だった時代において、この考え方は斬新でした。