ドラッカーはかつて「マーケティングは三井家によって発明された」と書きました。つまり現代、世界を席巻するビジネスモデルの原型は江戸時代にすでにあったのです。
そんな江戸時代のマーケティング戦略をまとめたのがコピライター・川上徹也氏による『400年前なのに最先端! 江戸式マーケ』。同書から一部抜粋し、三井家(のちの三井財閥)の基礎を作り上げた三井高利のマーケティング戦略を紹介します。(全2回の2回目/#1を読む)
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【5】今までにない「商機」を創り出す――両替商としても大成功
越後屋、両替商に進出する
天和3(1683)年、高利は62歳のときに駿河町(現在の日本橋室町)の店舗を拡大しました。南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店としたのです。これが後の三越百貨店、三井銀行(現三井住友銀行)の元になります。
江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銅(銭)の3種類からなる三貨制度で、単位の数え方や呼び名も違い、商品によって代金を支払う貨幣も違うのが当たり前でした。幕府が定めたレート「金1両」=「銀60匁(もんめ)」=「銭4千文:4貫文」はありましたが、相場はその時々で頻繁に変わるので、買い物の時は計算が大変です。また高額取引では、江戸では「金」が使われ、上方(京・大坂)では「銀」が使われるという独自の風習(「江戸の金遣い、大坂の銀遣い」)もあり、とても複雑だったのです。町人の間でも経済活動が盛んになってくると、それぞれの通貨を両替する必要が生まれます。高利はそこにいち早く目をつけたのです。
為替差益に目をつけ大儲け
貞享3(1686)年、高利(65歳)は仕入れ店のあった京でも両替商を開き、東西間の為替業務を行なうようになります。当時は前述したように江戸と上方で使われる貨幣が違うことで、様々な問題が発生していました。越後屋の江戸での売り上げは金貨ですが、仕入れの京・西陣で使われるのは銀貨。両替コストや為替変動リスクが大きかったのです。
この両替商の事業は、のちに経済活動が活発化するにしたがって巨大な富を生むようになります。そして単なる両替にとどまらず、お金の預かり、貸し付け、送金など、現在の銀行の役割を果たすようになっていきます。