もし、私が出くわさなければ、彼はゴミを置いていったはずです。そのゴミはだれかご近所さんが処分します。外国人に注意するわけではありません。「あそこの民泊の人たちが、こんなゴミの出し方してはった」と近所で噂になり、大家さんの耳に入るわけです。大家さんは、ご近所の目を気にして、民泊のお客さんに説明などはせず、とにかく「ゴミは自分で出さないように」となるのです。
京都の人は「近所の情報通」
このように、ご近所に暮らしている人のことを知りたがる、何かにつけて介入したがるのも、京都ならではのことです。私の家には外国からいろいろな人が泊まりに来るので、何度もそのような場面に出くわしています。
パリに住む妹の娘、つまり姪っ子が遊びに来たときも、しばらく滞在するのでゴミの出し方を教えました。朝、いっしょに玄関を出て、ゴミの収集所に着いたとたんに、ご近所さんの女性がさっと現れて「ゴミを出すときは、ネットをこういうふうに外して、こんな感じで置くのよ」と頼みもしないのに、姪っ子に教えだしたのです。
私は20年以上ここに住んで、20年以上ゴミも捨てています。その私を差し置いて、じかに指導しようとする。なんでやねんと思ったのですが、どうやら「サコさん家に最近来ているお客さんは何者?」と確認しているようなのです。つまり、近所に新顔が入ってきたら、どんな人物なのか、ささいなことでもいいから知りたい。サコとはどういう関係なのか、いつまでいるのか、本当はそういうことを知りたいから、ゴミ出しを指導するという名目で、情報を引き出すわけです。
京都の人は、ご近所の情報を本当によく知っています。「最近、新しく越してきた学生さん、たまたま聞いたら法学部の学生ですって」などとよく話しています。
噂話が好きなのは、私が生まれ育ったマリも同じです。地縁社会ですから、「だれそれの息子がだれそれと結婚して、どうのこうの」としょっちゅう話していました。
しかし京都に来たころは、京都人の噂好きに驚かされました。私は、日本人というのは人間関係も含めて合理的なのだろうと思っていたからです。でも京都は違った。びっくりしたけれど、親近感を抱いたのも事実です。
こういうことも、いわゆる「京都のいけず」かもしれません。「いけず」とは、意地悪という意味です。これは嫌いな人にだけでなく、好きな人にも使う場合があります。「ほんま、この人、いけずやわ」なんて恋人どうしで甘えるときに使うのです。そんな意味も含めて、私も、京都はいけずだなと思っています。